盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
マタイによる福音書23章26-28節
<十字架>は「内部」で決まる。
<内側で主を信じて従う人たち>が100%ちゃんとやったなら、<外側>へも問題が起こらなくて、<主>が十字架を背負わない。
「信じて従う人たち」が本当にちゃんとやらなければならない。
2017年4月13日木曜日 明け方のみことば
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
マタイによる福音書7章3-5節
イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。
マタイによる福音書12章25節
みことばを読み返していたらこの部分が出てきた。
いつでも何か行おうとするとき、内部がまとまってるかどうかで全ての運命が決まると言っても過言ではない。内部の争いほど、ダメージの大きいものはない。
私は鄭明析牧師のベトナム戦争の記録を読みながら、最も衝撃的だったのは同じ国の兵士たちが憎みあったり殺しあったりしているのが、思っていたよりはるかに多かったところだ。
このように国の中、内戦のような状態も時には起きてしまう。味方同士の争いだ。
でもどんなときも、どんな場合でも、自分の中の不和が起きた場合は一番まずい。なぜこう言い切れるかというと、私がそのような状態だったからだ。「外」で何があったとしても、何か言われたとしても、大抵の問題は自分が大丈夫であれば乗り越えられてしまう。
内部、つまり自分がしっかりしていないと「立ち行かない」。
神様のように主のように、もっと優しく強くハッキリありたい。
「このしののめのように見え、月のように美しく、太陽のように輝き、恐るべき事、旗を立てた軍勢のような者はだれか」。
雅歌6章10節
ハッキリしてる人、美しくバランスがとれてる人、清い人、いつでも準備できている人。私はいつでもこうありたい。
もし自分のバランスが崩れてる人がいて苦しい思いをしてる人がいたら、自分を最優先にして、自分に時間をたくさん投資してあげてほしい。人によるかもしれないが、私は自分が不安定だったときほど、何かしなくてはいけないという強迫観念にかられていたことがあった。
でも自分を整える、自分のバランスを取り戻すというのはあまりにも大きいことだ。それこそ国を平和に導くほどの力があることだ。自分を安定させれば、おのずと周りにも良い影響を与えるし力になれる。神様の願いをかなえてさし上げられる。
そう確信している。