長崎に行ったら必ず行こうと思っていた二十六聖人殉教記念碑。
長崎駅から、坂をのぼって徒歩10分ほどのところに記念碑はありました。
まず最初に目に飛び込んでくるのは
日本二十六聖人記念聖堂
こちらは二十六聖人記念碑のすぐ隣にあります。
こちらが
二十六聖人記念碑
実際にここに十字架につけられていたそうです。
二十六聖人とは
大阪と京都で外国人宣教師・修道士6名、日本人修道士と信者18名の合計24名が秀吉のキリシタン禁止令によって捕縛されました。24名は、1597年1月10日長崎で処刑せよという命令を受けて一行は大阪を発ち、京都・大阪で引き回しとなり、京都では左の耳たぶを切り落とされ、厳冬時期歩いて、長崎へ向かいました。途中、2名も捕縛され殉教の列に加わり、26名となりました。
同年2月4日、長崎・時津に到着、舟中で一泊、翌1597年2月5日の朝、ひどい霜の中、約12キロの浦上街道を歩き午前10時頃西坂の丘に到着。すぐに十字架に掛けられ、槍で両脇を突かれ、26名は長崎の西坂の丘で殉教しました。彼らは、殉教の瞬間、賛美歌を歌っていたのだそうです。
一行の中に12歳の少年ルドビコ茨木がいましたが、信仰を捨てるよう言われてもルドビコ茨木は信仰を捨てることはありませんでした。
またパウロ三木は死を目の前にして、周囲を取り囲む約4000人を超える群集の前で十字架に架けられたままこう話しました。聖パウロ三木は牢屋でも、見せしめのため京都で引きまわされたときでも、大坂から長崎までの長い道中でも毎日説教していたのです。十字架上では「太閤様(豊臣秀吉)をはじめ処刑に関わったすべての人を許します。切に願うのは彼とすべての日本人が一日も早くキリシタンになることです」。
この26人の殉教のできごとは、ヨーロッパその他に広く伝わりました。いったい遠く離れた異邦の地で、起こってるこの出来事は何事かと。1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、26名の殉教者を聖人に加えられ、[日本二十六聖人]と称せられました。
この場所に十字架につけられた意味は、見せしめの為
26聖人達が十字架につけられた場所は小高い丘。丘からは長崎の街がよく見えます。
逆に言えば、この26聖人たちの場所は、長崎の街の至る所から見える場所です。
昔なら高い建物が無いから尚更でしょう。
そこに十字架につけたのは見せしめ為だということです。
深く祈るしかないこの二十六聖人の殉教。
忘れてはならないのは、実際に今から約400年前に、この私達が暮らす日本で起きた紛れもない事実であり、その涙と叫びは天にまで届いたということだと思います。
そのようなことをかんがえていたら、雲がひらけ、天から光がさしました。神様がそうだよと言ってる気がしました。
参考:
日本二十六聖人殉教地(西坂の丘)
日本二十六聖人殉教地(長崎市公式観光サイト)