ある大学生の摂理メンバーが、あることを私に話してくれました。
リアルに私の息子娘であってもおかしくない今の大学生の年代。
「お疲れ様です。
りおさんのPCの画面をたまに覗くと、開かれているLINEのウィンドウの数が尋常じゃないです。
本当にお疲れ様です。感謝します。」
この言葉を見た時に、私は心がかなり楽になりました。
何故でしょう?
それは具体的に分かってくれたからです。
そして何より先に感謝を伝えてくれたからです。
LINEでのやり取りは、確かに様々にあります(^^;)
それ自体を凄く苦に思ったこととかは無いですが。
LINEのウィンドウの数にまで、いつの間にやら気づいていた?!摂理メンバーがいたとは驚きです(笑)
一体、いつ見ていたんだという( ̄∇ ̄;)
お弁当を作っている姿を、いつの間にか子供が見ていて感謝の言葉をもらった母親の気分(笑)
子供いないけど(笑)
このことを通して
「具体的に分かってあげるって、これほどまでに心が楽になることなのか。
先に感謝を捧げるとはこれほど大きなことなのか。
これと同じように、私自身がもっと神様のことを具体的に分かって差し上げたい。
一言の感謝もとても大事だけど、やはり具体的に分かって感謝することには及ばない。」
と強く感じたのです。
してあげたことが分からず、心情が分からず、行なったことを分かってくれず、
証してくれなければ・・・その人とは話したくもないし、対話も切れ、愛も遠ざかる。
神様と御子と救い人がしてくれたことを分かってあげてこそ、もっとしてくれる。
そしてもっと近くなる。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より
誰かが何か一つでもしてあげたことを分かってくれたら、とても嬉しく思いますよね。
全国の毎日、家事を頑張っているお母さんから「アーメン!本当にそうです!」
全国の毎日、人知れず会社で苦労しているお父さんから「いや、本当にそうなんですよ。俺だってね・・・あれやこれやそれや」
と聞こえてきます。
神様も同じです。
神様もしてくれたことが一つでも分かってくれるなら、その神様の喜びは人間の想像を遥かに超えるのだそうです。
大雑把に、いい加減に知っていることは知っていることではない。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より
分かってあげるというのは、具体的に分かってあげることと そうでないことは まるで天地の差があります。
分かってあげると、本人自ら能動的に具体的に動く。
受動的に動くと、全てが遅くなり、一部への負担が増大します。
誰かがやってくれるのを待っていたら、自分も疲れるし、相手も疲れます。
時には「なんでやってくれないの?!」という不満にすら変化することでしょう。
受動的では、互いに良いことはありません。
神様が一体、どれだけの荷物を抱えているでしょうか。
神様はいつもそれを見せません。苦労を見せません。
でも。荷物を一緒に持ってくれる人がいたら、どれだけ喜びでしょうか。
子供がお母さんの荷物を全部持てなくても、一部だけでも持ってくれるのであれば
その心情が何より支えになり、嬉しいものじゃないでしょうか。
私も保育士をやりながら、そのような場面にたびたび遭遇します。
洗濯物を干していると
「お手伝いするー!」
と言わんばかりに1歳の女の子が手伝ってくれるのです。
具体的に何が必要なのか、何が大変なのか分かって、具体的に助けてくれるその行いそのものが心を癒します。
私は神様が具体的に何をしてくださったのかを分かって、感謝を捧げ、少しでも具体的に神様を手伝いたい、一緒に行なっていきたいです。