教会の牧会者は、何年かごとに変わることもあります。
家で湿布を貼っていたとき、以前の牧会者のことが思い浮かびました。
そういえば、むかし湿布をあげたなあと思い出しました。
サッカーを一緒にやっていたあるとき、わたしは思い切り彼の足を蹴ったことがありました。
それで足を痛めさせてしまったので、サッカー直後に薬局に行って湿布を買い、
その牧会者の奧さんに、申し訳ありませんとお伝え願います、と頭を下げました。
牧会者の方も、奧さんも、全く気にしなくていいよ。気を使わなくて大丈夫。と言ってくれました。
牧会者の方は、hanaの蹴りで足を痛めるような柔ではないし、このことによって悟ることがあった。
とおっしゃり、わたしはますます頭が上がりませんでした。
御言葉があまりピンとこなかったわたしに、
根気強く御言葉を伝えてくれた人のうちの一人です。
よく考えれば、年齢も10歳ちょいしか変わりませんが、第二の父のようでした。
むしろ父になってほしいです。
彼はとても人格的な方でした。
わたしが御言葉を聞いているとき、悪いうわさを耳にして、
御言葉を教えてくれる人たちはカルトに属しているんじゃないかと、
わたしがやいのやいの聞いたときも、いつものとおり丁寧に教えてくれました。
神様の愛を真実に伝えてくださる方で、御言葉を聞くとき、本当に神様に愛されていると実感しました。
神様に対する謎の自信だけは絶対的につきました。
わたしが神様の愛を忘れかけたときはいつも、
そのとき教えてくれた御言葉を思い返すと、ああそうだったと、思い出します。
先生を本当に尊敬し、御言葉通りに、自分をひとつひとつ丁寧に作り上げた人だと感じます。
今は、他の教会に行ってしまいましたが、たまにお会いすると、初心を思い出します。
わたしがいつも考えていたことなのですが、
過去に出会って共にした人は、化石のようだなあと思います。
示準化石という言葉があります。中学で習ったと思うのですが、
その化石を見れば、どの時代に積もった地層なのかがわかる化石のことです。
サンヨウチュウがあれば古生代の地層、アンモナイトは中生代と判断できるようになります。
つまり、時代の代表なのです。
わたしはとくに、保育園、小学校、中学、高校、大学と、人間関係が完全にバラバラでした。
学校が変わるたびに新しい人たちと出会いました。
この子と会うときは、小学生のころを、あの子と会うときは、高校生のころを考えるようになる。
その人を見ることで、その時代のことを考えるようになるから、
わたしの中で、ひとりひとりは時代の代表のようなものです。
そのように、過去出会った人たちは、示準化石のように感じます。
学者が化石を見て、その時代がどんな時代だったかを知るように、
わたしは人を見て、その時代がどんな時代だったかを思い出すのです。
その牧会者の方を考えると、わたしがはじめて摂理に来たばかりのことを思い出します。
はじめて神様と出会い、はじめて先生と出会ったばかりのことを思い出します。
そのように過去を思い出したとき、あのときより、もっと熱く生きていきたいと感じました。