わたしは最近、人にいろいろとアドバイスをすることも増えたのですが、
こうしたらいいよ。ああしたらいいよ。と言いながら、
実は自分はできていないときがあると気づきました。
最近ある人に、ほめられたら、ありがとうと
素直に受け止めればいいんだよとにこやかに教えましたが、
いざ自分がほめられたとき、恥ずかしくって拒んでしまっていることに気づきました。
あれっ、わたし、言っていることとやっていることがちがうんじゃないか、と違和感を感じました。
そのくせ、誰かがほめられるのを見ると、
おっ、いいなあ。わたしもほめられたい。などとおもっていました。
おや、考え方がどこかでひねくれているようだなとおもいました。
どこからまちがえたんだろう。とたどってみると、
人と比較する考えがあり、自分を卑下して、愛を素直に受け入れない心もありました。
よい刺激を受け入れず、わるい刺激ばかりを受け入れる態勢でした。
でも以前のときなら、できていることでした。
最近、知らないうちにネガティブになっていた、と気づきました。
わたしは基本的にポジティブに考える方だとおもっています。
しかし、ネガティブなこともあります。
完全な考えではないのです。
お菓子のポイフルにいろんな色が含まれているように、
いろいろな色の考えが脳に生まれてきます。
赤いポイフルばかり出てくる日もあるし、
青いポイフルばかり出てくる日もあります。
いま、御言葉通りに考えているし、行なっている!とうれしくなっても、
次の日には、御言葉に合わない、自分がすきな考えばかりしてしまいます。
同じことをするのだとしても、
あるときにできていることでも、あるときはできなくなることもあります。
できていたことができなくなったとき、もうおしまいだと落ち込む必要はないのです。
わたしは成長過程だから、それはそうなのだ、とおもいました。
ただ、そこで合理化して、良しとしてしまうことが問題です。
このように人間は「自分がやったこと」を自分の方向で認め、
合理化し、喜び、そちら側になって生きます。
<神様がご覧になるときふさわしいこと>を認め、喜べば大丈夫ですが、
<ふさわしくないこと>を認め、合理化するから問題です。
2017年4月30日 主日の御言葉
完全に神様の考え通りにするために、少しむずかしくても、
それができる確率を少しずつ増やしていこうと、今日、また御言葉を聞いておもいました。
神様と合わない考えは、すぐさま崩してもらおうとおもいました。