GWは、遊び倒そうとおもっています。
そんなわけで、教会の友人たちと山に登りました。
スポーツをして、学ぶことも多いですが、山登りもめちゃくちゃ勉強になりました。
教会の中でも、みんなをまとめてくれる立場の人を、
牧会者とか、指導者と呼ぶことがあります。
その日、一緒に山を登っていた、ある指導者がいました。
その人は先頭を登っていたのですが、
途中で降りて戻ってきて、わたしたちを通り過ぎて
一番下の人たちの元まで降りて行きました。
後からついてくるグループは、こどもたちと女性のグループです。
考えれば、確かに、大丈夫かなと心配になります。
一番先の人たちも導きながら、一番後の人たちのことも気遣う姿に、
あっそうか、と気づかされました。
なぜなら、わたしは自分が登ることでいっぱいになっていたから。
その人は、指導者や、保護者としての立場もあったとおもいますが、
心から気遣う思いで見て、大変だけれども降りて行ったのだと思います。
その姿を見ながら、考えているよりも、自分の視野がせまかったことを知りました。
また、わたしは下山中、こけて膝から血が出ました。
山登りを終えてから、その傷口を確認していたのですが、
その指導者は、「お、大丈夫?」と即座に気づいてくれました。
瞬時に核心的なところに目がいくのか、と感動しました。
以前もある記事に書きましたが、
指導者たちは、ひとりひとりを気にかけ、考えてくれる存在です。
どれだけ生きたか、長さは関係ないのですが、
さすが、指導者として経験を積んだ人たちには、いつもハッとさせられます。
なぜ、そんな小さなことだけれど、人の心情が左右される重要なことに気付くのだ・・と
いつも身が縮まるおもいです。
御言葉を学ぶ人たち、いつもすごいなと感じるし、
そういう水準であるための努力は並大抵ではありません。
それだけ努力しているから、話す言葉一つ一つ、徳が高いです。
徳が高いとはこういうことか、と学びになります。
いつも考えていることがそのまま行動に現れるのだなと感じます。
わたしの周りの人たちには、いつもハッとさせられます。
そういう人を見るたび、そういう人のことばを聞くたび、
あっそうか、わたし、めちゃめちゃたりないじゃん。と気づくのです。
そういう人たちを通しても、神様はわたしを教えてくださるのだなと感じます。