おもしろいということは、わたしにとって救いです。
わたしの教会は、幸いにもおもしろい人が集まっています。
神様が導いてくださっているのかもしれません。
わたしがはじめて御言葉を聞くときも、はじめて教会に行ったときも、
そばにおもしろい人がいてくれました。
「おもしろい」にもいろいろありますが、
ここでは、愉快だという意味でのおもしろいです。
摂理はおもしろいところなのです。
たぶん、神様がとってもおもしろい方なのだと思います。
御言葉を聞き始めたばかりのころ、摂理の人たちとともに、
御言葉を聞きながら笑い、聖書を読みながら笑い、
ごはんを食べながら笑いました。
それはわたしにとって大きな安心となりました。
おもしろいということは、大丈夫だとおもいました。
わたしはおもしろいことがすきだったし、
笑う余裕がある人たちは、正常だとおもったから。
なにより救われたのは、先生がおもしろいということです。
御言葉の中で、冗談なのか冗談じゃないのか絶妙な話をなさる姿、
ダンスの上手い人たちにまじって、ひとり謎の踊りを始められる姿、
バナナでモノボケをして電話をなさる姿、
そのような先生の姿を見たとき、この方はおもしろい方だ、ぜひ会ってみたい。
最後まで絶対についていこう。と心からおもいました。
多くの人を指導する立場だけれども、かなり親しみやすく、
ユニークにひとりひとりに接している姿が印象に残りました。
わたしは先生のおもしろさに惚れたと言っても過言ではありません。
わたし自身、おもしろい人だと小さい頃から言われ続けてきました。
わたしのアイデンティティはおもしろいことだとおもっていました。
しかし、高校、大学、また社会の中に出て行くと、おもしろい人はいくらでもいます。
おもしろさで一番になることは無理だとおもいました。
しかも、わたしはどうして自分が笑われているのかもつかめていない状況でした。
笑われることはできても、笑わせることがむずかしかったのです。
あの人はみんなを笑わせることができていいなあとよくおもっていました。
そんなとき、御言葉で個性について教えてもらい、
おもしろいの中にも、さらに個性があるのだと感じるようになりました。
わたしは人を笑わせることはできないけれども、
おもしろいことにはすごく興味があると感じました。
だから、おもしろいことをすてきに紹介してみようと考えました。
最近、わたしの目の前に、たくさんのひもがぶらさがっていて、
あるひもは、ひっぱると引っこ抜けてしまうのですが、
うまくひもを選んだとき、上まで固くよじのぼっていける感じがします。
新しいことに挑戦するたび、引っこ抜けないひもが見えてきて、可能性が広がるように感じます。
それでわたしは今、1本のひもをひっぱってみたのです。