おならは、神様が創造なさった、人間が活動するための精巧な仕組みのひとつです。
しかし、おならはいつ出るか調整しにくいものです。
1日の中で何度もお祈りを捧げる摂理人ですから、お祈り中におならが出そうになることもあります。
わたしは今まで、お祈りしているときにおならをしてもよいと考えていました。
祈りに集中するために、余計なことを考えないようにするためです。
しかし、最近わたしはおならをしなくなったのです。
おならをがまんしたら、余計なストレスがたまるのに、なぜか。
神様の前でおならをしたら、神様に失礼になるのではないかと疑問におもったからです。
自分だけの考えなのかとも迷いました。
なので、御言葉を調べてみたのですが、「おなら」「屁」というワードでいくら探してみても、
「おならをするな」という言葉は出てきませんでした。
聖書はどうなのか。
iPhoneに入っている聖書アプリで調べてみました。その結果がこちらです。
ない。
ここで、言葉についてを考えなくてはいけません。
そうか、聖書の言葉って漢字が多いから、「おなら」じゃなくて「屁」ならあるはずだ。
やっぱりない。
御言葉で教えてもらえないから、祈るしかありませんでした。
一体、みんなはどうしているのか。明け方のお祈り中、とても静かですから、
もしおならをしている人がいるなら、きっとすかしっぺをしているのだとおもいます。
しかし、人がどうしているから、ということは関係ありません。
自分と神様との問題ですから、神様に尋ねました。
「神様の前でおならをすることはどうおもわれますか?」
尋ねた瞬間にわかりました。
たぶん嫌だとおもっていらっしゃることが。
わたしも人から「おならしていい?」と聞かれたら、いいよとは言いますが、
音も匂いもなくても、「この人いまおならしたのか・・」と考えるとなんか嫌です。
神様の考えは人とは異なると言いますから、
もしかしたらおならのことを容認してくださっているかもしれません。
しかし、わたしがされて嫌なことは、神様にもしないことが愛なんじゃないかとおもいました。
この核心は、おならをしてはいけないということではありません。
おならをしたい人は、どうぞしてくださいね。
わたしがおならをすると神様が嫌がると悟ったから、
愛する神様がそう思っていらっしゃるなら、としなくなったということです。
生活の中で神様と共にする生活をしようとすると、
実際、神様がどうおもっていらっしゃるか、はっきりとはわからないことも多いのですが、
わたしが愛をもって、神様の立場を考えながら判断することが大切だとおもいました。
人と同じように、もしくはその何倍もの大きさで感情を感じている神様です。
御言葉で「するな」とは言われていないけれど、
神様は喜ばないんじゃないかとおもうことは、神様を愛する心で、行わない判断をしていきたいです。
またそのように、御言葉で「するな」と言われたから、ただ行わないというのではなくて、
その心情、神様の感情まで考えて行うことが本当に大事だと感じました。
神様と一緒に生きる生は、制約が多いように感じられるかもしれません。
しかし、自分の好きな人が、してほしくないことはしないようになるのといっしょです。
ちなみに、前に御子が女性におっしゃってたんですけど、
腕毛とかは、できたら剃ってほしいそうです。
—追記—
こんなステキ画像をりおさんがつくってくれました。
こんなステッカーがあったら、
みんなおならについて考えている人みたいになりそう。