三年前、わたしはインドに行きました。
ガンジス川の近くで、ひとりの現地のおばあさんに出会いました。
そのおばあさんは、わたしに向かって話しかけました。
なにやら、お祈りをしてくれるというのです。
そのとき、わたしはその必要を感じませんでした。
そもそもわたしのことを何も知らないのに、何について祈るんだ、とあやしみましたが、
まあ断る雰囲気でもなかったので、黙って祈ってもらうことにしました。
それで、祈りらしきものが終わると、おばあさんはわたしに向かって手を差し出しました。
なになに、握手するの?とおもって握ろうとすると、おばあさんは顔をしかめました。
どうやら、祈った分、お金をくれということだそうでした。
わたしには、なぜお金を払う必要があるのか、理解ができませんでした。
祈り、御言葉を伝えてもらい、それに対して自分で感謝し、対価や謝礼を支払おうと自ら進み出るならわかります。
しかし、わたしはそのおばあさんの祈りに対して価値を見いだしませんでした。
しかも、向こうから祈ろうと言ってきたことでした。
お金というのは、価値を見いだしたものに対して、自らが欲しいと願って支払うものです。
いつのまにか商品やサービスを売られて、いつのまにか自分がお金を払うことになっている。
そういう商売とたまに出会いますが、このおばあさんとのことも、近いものを感じました。
祈ってあげたなら、感謝してなにかくれるのが当然だというのがおばあさんの考え方のようでした。
その見返りありきの信仰に疑問がわきました。そして、信仰を商売にすることにも。
わたしはちょうどその頃、摂理の人たちに出会い、聖書を学んでいる途中でした。
摂理の人たちは、会うたびわたしのために祈り、無料で聖書について教えてくれました。
教えてくれる人たちに、そんなに時間を出して大変ではないのかと聞くと、
人に教えながら、自分もこうして聖書を学べるから感謝している。と話しました。
でもそのおばあさんのお祈りの目的は、お金でした。
そのおばあさんの信仰と、いつも自分が接している人たちのものとのギャップに戸惑いを感じました。
信仰ってそういうものなの?お金をもらうために祈ってよくしてあげるの?とおもいました。
熱心に信仰を持って、善良に生きているはずのおばあさんとのやりとりは、
愛が一切感じられないものだったから、びっくりしたのです。
心構えや目的が、本来のことからずれているように感じました。
そしてそれを、果たして神様が喜ぶのだろうかと感じました。
本来、神様のための信仰なはずだけれども、自分のための信仰になっているように感じました。
お金を稼ぐことが信仰だと教えられたなら、わたしは信仰を持とうとおもわなかったでしょう。
そうでなくとも、一番大事なことが神様への愛だと教わらなかったなら、
また、御言葉を聞いている人たちの行いが伴っていなかったなら、わたしは摂理に来ようとおもいませんでした。
わたしがお金を払わないそぶりを見せると、
そのおばあさんは、するどくこちらを睨みました。
表情が凄んでおり、この人は心の底から憎しんでいるのだなとおもいました。
きっとお金が欲しかったのだろうとおもいます。
わたしは、すごく残念に感じました。
その人はそうしないと生きていくことができないし、そういう考え、文化だったかもしれません。
しかし、神様はそのように願っていないだろうなとおもいました。
おばあさんの言葉はわからなかったから、
何に対してどのような信仰心を持っていたかはわかりませんでしたが、
その姿を見て、わたしはどうせなら、神様が喜ぶ信仰を持ちたいとおもいました。
自分を中心にした信仰なら、自分でも苦しいはずだし、はたから見ても虚しさを感じたからです。
そのようにして、現地の何人かの人と出会ったのですが、
インドで神様は、様々な信仰を持つ人の姿をわたしに見せてくださったなと感じます。