昨日、電車に乗っていたのですが、
途中でめちゃくちゃトイレに行きたくなりました。
切実な思いで、早くトイレに行きたいのですがと神様に願い求めていましたが、
目的地の駅まで、どのように計算しても残り10分ありました。
次の用事まで残りの時間もあまりなかったため、この10分の間、途中で電車を降りることができませんでした。
いつもならすぐに過ぎ去ってしまうこの10分が、あまりにも長く感じられました。
何度時計を見ても、一向に時間が過ぎ去りません。
御言葉でいつも、時はすぐに過ぎ去るから光をつかむように実践しなさいとおっしゃるのに!
この御言葉はここでは適応されない!時が過ぎない!とやきもきしながら、耐えました。
この異常なできごとは、いつになって終るでしょうかと
旧約の預言者ダニエルのごとく繰り返し主に尋ねましたが、返事はありませんでした。
「光をつかむように実践すること」は、今年たくさん教えていただいた、大事な御言葉です。
今こそ光をつかむようにトイレに行くべきなのに!
わたしは何もできないまま、無念な思いをするばかりでした。
そのとき、神様もこのような心情を感じているのだと感じました。
神様の成したいことがあるけれども、わたしが神様の願っていらっしゃる通りに動けないことで、
なにも成し遂げられず、もどかしい思いをさせてしまっているのではないかと感じました。
電車が光のように速く進んでこそわたしがトイレにすぐに行けるように、
わたしも光のように速く行なってこそ、神様の成したいことも成されます。
このように、トイレに行けなく苦しい思いを、神様にも味わわせてはならないと悔い改めていると、
ついに電車が目的地に着きました!
わたしはわき目もふらず、トイレに向かいました。
今年、2017年のはじめ、実践することについてたくさん教えていただきました。
夢を目指して、自分のやるべきことを前に、得るべきものを目指して、
まるで『競走する人』のようにわき目もふらずに、甲斐を感じ喜んで実践しなさい。
このようにわき目もふらずにやるのかと実感し、
本当にこの御言葉の通りだ!と心で叫びながらトイレにかけ込みました。
ここで人が並んでいたらどうしよう、どうかトイレに行けますように!
と願い求めていたら、なんと、トイレの扉が、ひとつだけ空いていたのです!
神様に心からの感謝を捧げなくては!と思いましたが、そんな間もなく、わたしはトイレに入りました!
極的なときは、自分の心が現れるときだから、
ちゃんとしなければいけないと御言葉で聞いたことがありました。
わたしは心が落ち着いているときにその御言葉を聞いたから、しっかりやろう!とおもえたのですが、
いざこのような極的な瞬間にであったとき、神様ではなく、自分の考えを優先させました。
この御言葉を実践することは本当にむずかしいことだ!と感じたし、
わたしは、もっとレベルを上げる必要があることをすごく感じました。
トイレひとつでめちゃくちゃ悟れる!
摂理に来て、本当にわたしの人生が変わった!と感激しました。
そして、このようにトイレに行く前は、切実にトイレに行くことを願い求めるけれど、
わたしたちは、トイレに行った後はもうトイレを求めません。
神様に対しても、このようにしていけないのだという話を聞いたことがあります。
願っていること、やりたいことができる前は、神様に切実に願い求めるけれど、
願いがなされた後は、神様を思い出しもしません。
人に対しては社交辞令でも「あの節は本当にどうも」と繰り返しお礼を言うのに、
神様には、何ごともなかったように接していては、人以下の扱いになってしまうのではないでしょうか。
先生は神様に対して、何度も何度も、心から感謝を捧げることができる方です。
その話は、いろいろな人からよく聞く話でした。
その話はもう知っているとは思っていましたが、
わたしも同じように行うことは、簡単にはできないことだと感じました。
わたしはいつもわたしを中心に考えるけれど、
先生はいつも神様を中心に考えているから、わたしとは本当に考えがちがうと感じました。
余裕があるときはできるけれど、余裕がないときはできないというのではなく、いつもそうするのです。
先生なら、どれほどトイレに行きたかったとしても、
きっと神様のことを気にするのだろうと、と先生のことをおもいました。
あと、トイレ、行けてよかったなあとおもいました。