「内向型を強みにする」内向的に生きてもよかったんだっていう話

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ここ2、3日「内向型を強みにする」を読みふけっていました。

最近、内向型について知るようになり、
専門的な本を読みたいと考えていたら、
AmazonPrimeで0円だったんです。御心を感じました。

とても面白くて、他のことが手につきませんでした。
わたし、内向型の特徴がとっても当てはまったんです。
自己診断テストでは、完全な内向型と出ました。

だから、自分はどちらかといえば内向型だということなのですが、
それがわからなくて、ずっと外向型の人のようにふるまっていたんです。
外向型が正義だとおもっていたから。

 

内向型の人のもっとも顕著な特徴は、そのエネルギー源である。内向型の人は、アイデア、感情、印象といった自身のなかの世界からエネルギーを得ている。

内向型を強みにする (p.20). Kindle 版.

かんたんにいうと、
内向型は一人になることや、内省することで充電され、
外向型は人と会い、話し、刺激を受けることで充電されるという違いがあります。

逆に、内向型は刺激を受けすぎると消耗し、
外向型は刺激がなければ退屈に感じてしまいます。

単に内気だから内向型というわけではありません。
人付き合いが好きな内向型もいるし、クールな外向型もいます。
その人が、エネルギーをどこから得るかが問題です。

外向型、内向型、どちらが悪いということもありません、ただ、個性が違うというだけです。

この本を読んで、わたしが今まで不思議に感じていた自分の特徴の謎が解明されました。

わたしは内向型の気質を知らないがゆえに、うまく休息を取ることができていませんでした。
休息だと思って取っていた行動が、休息ではなく消耗する行動だったのです。
そして、わたしが体力を消耗する場面は、あまりにも多かったのです。

大勢の人がいる(かつ、人との距離が近い)教会に行くと、決まって疲れてへとへとになるし、
御言葉を1時間も聞くと、わたしの頭はいっぱいだし、
「今日の御言葉どうだった?」なんて聞かれても頭の中は真っ白だし、
それどころか頭にモヤがかかりっぱなしで、早く糖分を一口でも摂取しなければ、と生命存続の危機を感じます。

それもそのはずです。
さまざまな人の声、人口密度の高い部屋、賛美、楽器、換気扇、深い御言葉、処理しきれない多くの情報、
わたしはそういった多くの刺激によって、自分の体力を消耗しきっていたのです。

特に礼拝があまりにもつらく、何度も、泣いて逃げ出したい思いに駆られました。

 

御言葉を聞いていると、いつもパンク状態です。
御言葉が終わった後、わたしの頭の中は、いつも無でした。
なんにもないのです。

だから、感想を聞かれても、なんにもいえないのです。
でも、みんなはあれこれ思ったことを口にします。
それがとっても不思議でした。なんでそんなに話すことがあるのだろうと。
だからわたしは、頭が悪いのだとおもっていました。
神様に、頭の回転が早くなるようにしてください、賢くなるようにしてください。といつも祈っていました。

彼らは外界から、意識的、無意識的に情報を吸収している。外からの刺激を抑えることができなければ、彼らの内なる思考、感情、感想は、決して表に出てこない。処理時間がなければ、彼らの精神は停滞し、満杯になってしまう。すると内向型の人の多くは、脳が空っぽになった気分を味わう。ところが実は、脳のなかには多くがつまっている。ただ、それが整理され、より分けられていないだけなのだ。

内向型を強みにする (p.135). Kindle 版.

 

わたしは他の人よりももっと、処理の時間が必要なようにつくられているのではないかと思いました。

その瞬間は人前で話せない代わりに、
わたしはひとりでブログを書いていると、手が止まりません。
おしゃべりな人の口が止まらないように、手が止まりません。

わたしには、そんなにも話すことがあったのか、と驚きます。
話すよりも、書くほうが話せるのだと感じます。

 

しかし、わたしは冒頭にも書いたとおり、外向的に生きていました。
大学生のうちは、あちこちのサークルやプロジェクト、飲み会に顔を出し、
本書で紹介されるような、典型的な外向型の考えでした。

以前、 外向型の友人がこう言っていた。「パーティーであちこち飛び回って、それぞれの会話 のいいところだけだけ聞くのが好きなの」彼女はどんなことも逃したがらない。

内向型を強みにする (p.26). Kindle 版.

 

わたしは、まさにこの考え方で過ごしていました。
すべての状況下で、おいしいとこどりで生きようとしていました。

外向的に生きることこそが理想の生だとおもっていました。動き回っているそのときは楽しいんです。
でも、思い出せば、イベントの後は、いつもつかれ果てて部屋にこもっていました。

きっと、わたしが本当にしたいことではなかったんです。
内向的な自分がきらいだったし、そうならないように飛び回っていました。

わたしは昔、内向的すぎたがゆえに、人に嫌厭されがちでした。
このままでは、貴重な学生生活が台無しなってしまう。なんとかしなければ、とおもいました。
わたしは極端でした。外向的にふるまうことを決め、ある1年間、外向型になったのです。

内向的に過ごしていたこれまで、40人弱いる1つの教室の中で、わたしの視野に見えていたのは、たった4人だけでした。
外向的にふるまい始め、わたしにはクラス全員が見えるようになりました。
いつも心細く誰かにくっついて回っていたのが、席に座っていれば誰かしらが寄ってくるようになり、
だれかと目が合えばふざけあい、なにか変わったことをすれば一斉に笑いが起こり、
休日は3、4のグループから遊びに誘われるようになりました。
内向型であったときの数百倍、存在感のある人になりました。

そのときから、わたしは外向型至上主義になりました。
明るければいい、人に好かれればいい、社交的でないと損をすると思って生きてきました。

 

しかし、それは性に合わないことでした。
理想的な正解の自分は、がんばればなんとなく作り出せる。
でも、そのようにしたらつかれる。なにが正解なのかわかりませんでした。

摂理に来て、自負心を持ち、証になる人になろうと思い、より外向的な性格であろうとしました。
御言葉を伝えたり、人前で賛美したり、証したり、大学でも活躍したり、
外向的であってこそ、もっとよくできるのだとおもっていました。

しかし、なにかが抜けきれない感じがしました。
今自分が考えている理想の姿を突き詰めるとき、限界があるように感じました。

できるようにふるまっても、本当に外向的な人の前ではボロが出るようでした。
これは、本当にわたしの個性なのか、とわからなくなりました。

 

外向的にふるまうほど、周囲の人以上につかれ、体力がない感じがしました。
外向的にする以前に、普段の信仰生活でいっぱいでした。
わたしはこんなにも疲れ果てて隠せないほどなのに、
それでも平然とした顔をする摂理人たちの次元は高すぎる、もうついていけないとも思いました。

でも、この本を読みながら、わたしのやり方が間違っていたことに気づきました。

そもそも、御言葉で、いろいろなパーティーに顔を出しまくれとか、
常に明るく元気に人としゃべり続けろとか、聞いたことがありません。

神様の愛で人に優しくするにしても、なにかをいっしょにするにしても、
わたしの生まれ持った、神様が与えてくださった個性でやればよかったのです。

わたしはウサギだとしたら、強いチーターにならなくても、弱いウサギのままでよかったのです。
しかし、自分がチーターだと思いこんで、チーターとしてうまく生きられず、落胆していました。

ウサギとしてできることを探すべきでした。
神様の考える成功ではなく、わたしが考える成功ばかりを見ていました。

 

この本を読んで特におどろいたのが、「ちょっと考えさせて」という返答です。
そのように言えばよかったのだとおもいました。
わたしは、自分の気持ちがどこにあるのかもわからないまま、イエスノーを答えていたのですが、
今すぐに返事をしなくてもいいときもあるのだ、とおもいました。

大切なことを決定するときは、よく、「お祈りしてから決めますね」というのが
摂理人の定型文として使われていますが、
もっと私が使うべき場面があったのかもしれないとおもいました。

わたしは、すぐに空中で思考を並び替えて整理することは難しいから、
時間を置いて、書いて、よく考えて、ようやく意見が出てきます。

 

外向型は、わたしのすきな姿でした。だから近づこうとしていました。
いいに決まっているから、神様の願う姿もこうだろうとおもっていました。

しかし、わたしは御言葉に従っているのか、自分の考えに従っているのか、よく考えなければいけないとおもいました。
神様が好きな自分ではなくて、自分が好きな自分になろうとしていたのではないかとおもいました。

わたしのことを一番よくご存知な創造主神様に、わたしについて、もっと教わりながら生きていこうとおもいます。

 

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