現役筑波大生が「摂理」とかいう新興宗教にハマった末、ようやく気づいたこと

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現在、わたしは筑波大生です。
筑波大学に入学し、大学3年生の夏、摂理にやってきました。

大学を卒業した後、大学院に進んで、摂理に来て3年半。
わたしは大学生を終えて、もうすぐ社会人になります。

 

正直、摂理の礼拝に出るようになっても、
しばらくは摂理に対して、心が揺れていました。

今の自分は、見る人から見たら、宗教に溺れている状況かも・・
もし騙されていたら、貴重な学生生活、かなり時間を費やしてしまったな・・という不安な気持ちと、
神様さいこおおおおお!!ひゃっふぅぅううううう!!!!という、うれしい気持ちの
入り混じった、複雑な心境でした。

宗教にハマるっていうと、行く先は、あんまりいい噂を聞かないじゃないですか。
宗教にハマったり、占い師にハマったり、なんでもハマりすぎはよくないとおもいます。

なので、わたしもそんなにハマる予定はありませんでした。
ちょっと宗教の世界ものぞいてみよ〜っとくらいにおもっていたのですが、
今や御言葉を伝えたり、父に聖書を勧めたり、指導者までやっていた姿をおもうと、笑えます。

 

ここで、どういう状況をハマったと表現しているかというと、

日曜は基本として、摂理の礼拝に欠かさず出て、
朝のお祈り会(4時)に毎日参加して、
それ以外の時間にも聖書や御言葉を読んで(あんま読めてなかったけど)
教会のお手伝いとか、いろいろがんばって、
教会のメンバーをまとめる指導者の立場も任せられて、

摂理が好きで、摂理を中心とした生活をがんばったことを、ハマったと表現しています。

摂理の人から見たら基本的なことだとおもうのですが、
摂理以外の人から見ると、よくハマってる方ですよね。よくいる熱心な信徒。

 

摂理にハマり、学生生活、青春をすべて摂理に捧げた結果、わたしがどうなったとおもいますか。

大学生活を宗教に費やし、後悔しているのでは・・とお考えですか。

主観的な意見になりますが、わたしにはいま、充足感があるんです。

なぜ充足感を感じているのか。
貴重な大学生活、神様と一緒に過ごしてこれたことが、何よりも誇らしいし、
自分が御言葉を学んで、それを基に行動してきたことによって、
過去と比べて変化しているという実感があるからです。

それがどんな変化かというと、

仕事をするにしても、ただ仕事をするのではなく、
街中でなにかを目にしたときも、ただ偶然と考えるのではなく、
ぜんぶ神様とつなげて考えるようになったこと。

自分ひとりの損得だけを考えていたところから、
もっと大きな目で見て、神様に貢献するようになったこと。

いかに効率よくサボるかが大事だとおもっていたところから、
いかに心と思いと命を尽くして行動するかに挑戦するようになったこと。

かぞえきれません。

 

摂理に来ていなかったら、そういう変化は、すべて得られなかったんです。
わたしが変化するには、神様や人生の根本について知り、考えを変えていく必要がありました。
摂理以外で、神様のことをわかりやすく教えてもらえるところはありませんでした。

自分、摂理に来てなかったら、やばかっただろうなとおもいます。
どんな風にやばいかというと、たぶん貴重な毎日を、
動画を見るか、漫画を読むかで終わらせてしまっていたとおもいます。

動画や漫画から哲学や芸術を学べるのだ、と言いながら、
ただあそんで、本当に何も残らない日々を送っていたとおもいます。
わたし、すぐ忘れるし、実際に残らない。

だからつまり、大学生活6年間、なにも変わっていなかったとおもいます。
それを思うとかなり恐ろしいです。いや、ほんとおそろしい。こわ。こええ・・

 

でも、摂理に来ていないなら、怖いという感覚もなかったとおもいます。
毎日を意味があるように生きていく必要があることと、
そうしてこそ、本当に喜び、楽しんで生きていけること。
それは、摂理の御言葉でおしえてもらったことだからです。

わたしひとりで生きていたなら、それこそ、人生が失敗していたなとおもいます。
わたしは、大学生のうちに摂理にハマれたから、大学生活が本当に成功したと感じます。

摂理に来る前は、宗教にハマるなんて怖いと感じていましたが、
摂理に来てからは、摂理にハマらなかった場合のことを思うと、恐ろしくてたまりません。
洗脳とかじゃなくて、ほんと自分成功してるとおもいます。

 

わたしは大学受験のとき、私立の大学を受けずに、筑波大学一本で合格しました。
あまり受験にお金をかけなかったので、よく褒められるのですが、
それよりも、わたしが摂理に出会って、そのまま信仰を持った自分を一番褒めてほしい。
ほんと褒め称えたい。よくやった。よくぞ、ここまで来た。

筑波大学に来て、一番よかったことはなにかと聞かれたら、摂理に出会えたことだと答えたいです。
それだけで、筑波大に来た意味があったと感じます。
センター試験解きまくってよかった。
漠然とした不安と戦いながら、ひたすら知識を詰め込んだ毎日、無駄じゃなかった。

 

お金はもう一回取り戻せるし、不合格でも再び試験のチャンスがないわけでもありません。
また、自分の努力次第で、なんとか乗り越えることもできます。

しかし、宗教に対して偏見を持ちやすい環境だった&持っていたわたしが、
若いうちに信仰を持って走るようになること、ほぼ1回きりのチャンスだとおもいます!
この1回のチャンスをつかんだんです。これって、ほんとにすごくないですか。

もし大学も違って、タイミングも違って、御言葉を聞くチャンスもなくて、
なんにもなかったら、最初からチャンスもなんにもないんです。

もうこれ、自分の努力次第でなんともできる問題でもありません。

 

本当に自分を褒めてあげたいけれども、
これって、自分で選んできたようで、自分一人で摂理にきたことではありません。

ぜんぶ、見えないところで神様が連れてきてくださったんです。
わたしだけじゃありません。どんな人もそうです。

自分の努力だけなら、できなかったんです。
神様が自分を選んでくださって、働いてくださって、信じられるようにしてくださった。

これ、超すごいことです。
神様を一番に褒め称えてください。本当に感謝してください。

自分が神様と出会ったなら、本当に貴重に思ってください。
他の人がどれだけできても、自分がどれだけできなくても、神様はずっと愛しています。
だから、いま、摂理に来たし、来ようとしているのだとおもいます。

 

そういうことに、
摂理で過ごした学生生活をふりかえって、気づくようになりました。

 

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