認める

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「自分を好きになる」という過程において、「認める」というのは必ず必要になってきます。

「自分を好きになる」ということと、「認める」とはどういう関係があるのでしょうか?

自分を好きになるということは、根底に無条件に自分を愛することが必要になります。この無条件という言葉は、「条件が必要ない」ということです。

人は、その人のことを愛する時(この場合は精神的な愛を指します)、理由があります。

「顔がかっこいいから、かわいいから」

「勉強ができるから」

「優しいから」

などなど、挙げればきりがないでしょう。

このように、「~だから好き」と、自分にとって好ましい要素、条件があってその人のことを好きになる、愛することを、「条件付きの愛」と言います。

大体僕たちが生きている世の中というのは、この「条件」によってその人の「価値」が決まりますよね。

あの人は有名大学にいっているから「すごい」、

この人は頭が悪いから「たいしたことない」、みたいな感じで。

このような愛は、結論から言えば不完全な愛です。

なぜか?

好きになる条件から少しでも外れてしまえば、その人のことを好きになる、いとおしく思うことができなくなってしまうからです。

また、その条件の観点からしかその人のことを見なくなってしまうので、その人の「価値」は本来の価値を十分に持ったものではなくなってしまうからです。

例えば、もし先ほど例に挙げた「東大に行っているからあの人はすごい」というのは、もし、別の大学に行ったとしたら、その人は「価値」がなくなってしまうのでしょうか?

また、「頭が悪いから大したことない」というのは、頭が悪いだけでその人の「価値」は決まってしまうのでしょうか?

 

神様は、人のことをそのようには見ていません。

神様は、「~だから」その人のことを愛したり、大事にしたり、嫌いになったりしません。

神様はほかでもなく「人間の存在そのもの」を愛していらっしゃいます。そして、人間が生きている「この地球世界」を愛してくださっています。

この、「存在そのもの」を愛することを「無条件の愛」と言います。

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」という聖句にあるように〈ヨハネによる福音書3章16節〉、神様は人類を救うためにキリストを送り、彼を通して人類全員が救われるようにしてくださったほどに人類を無条件に愛してくださっています。

善人だろうが、犯罪を犯して獄にいる人だろうが愛しているのです。〈その人の存在そのもの〉を愛してくださっています。

 

話は最初に戻りますが、自分を好きになるには自分を無条件に愛することが根底になければならず、そうなるためには「認めること」が大事です。

無条件に愛するには、自分のできているところだけでなく、自分から見ても嫌なところ、足りないところを「認めること」が大事なのです。

そうしないと、自分の心の中で「自分の嫌いなところ」を消してしまおうとして、自分の心の中で戦争が起こります。心の中で、自分が分裂してしまっているわけですね。そうなっているのが、「自分が嫌い」な状態。「自分が好き」な状態っていうのは、自分のできないところ、足りないところ、言葉と行動が矛盾しているところ、など、目をそむけてしまうような自分の「汚い」ところを認めて、受け入れている状態です。こういう状態は、一見弱くなったように見えますが全然そうではありません。

「強さ」とは、筋骨隆々だから強いのでも、喧嘩が強いから強いのでもありません。

自分と正直に向き合って、自分の好きなところから嫌いなところまですべて受け入れている人が真に「強い」人なのではないでしょうか?そして、神様はその人がその人自身の価値を悟って、自分を好きになって、生き生きと生活されることを何よりも望んでいるのではないでしょうか。

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとへ来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」〈マタイによる福音書 11章28-30節〉

 

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