御言葉では、よく「自分の悪い性格、性質を直しなさい」とおっしゃいます。
自分の悪い性格、心の性質を降ろして(なくして)
神様のような品性を備えなさい
私にはたくさん、降ろすべきものがあります。
その中で、自分でも一番降ろしたいものがあります。
「認められたい」
という思いです。
私は、教育熱心な両親に育てられました。
常々、「いい学校に入れ」と言われてきました。
特にその傾向は中学校に入ってから加速していき
テストで90点を切ると怒られる
70点を取った時には
「何をやってるの?」と問い詰められるような環境で過ごしました。
世間一般では70点はいい点数の部類ですが
私の家ではそれは落第点でした。
中学生の私にとって
テストは嫌で嫌でしょうがないものでした。
テストが近づくたびにイライラや、親のプレッシャーから逃れるために
一日中ゲームをしたり
漫画を読んでいました。
他にも、中学生以前の幼少期から
何かができないと父から小ばかにされました。
父からしたら私の負けず嫌いな心を触発させようとしたのでしょうが
当時の私は本当に馬鹿にされるのが嫌でしょうがありませんでした。
そんな子供時代を過ごしてきたせいなのか
「認められたい」という思いが私の精神の根っこにへばりついています。
何か人にいいことをしても、
その根本の心は純粋な相手への思いやりの心ではなく
どこかに
「人に親切する俺って偉いやろ?」みたいな心があります。
何をしても、その根本には「人に認められたい」という思いがあって
純粋に相手を喜ばせてあげたい とか
自分が多少犠牲になっても、相手のためを思って行うとか
そうした思いが出てきませんでした。
そうした考え方が
私の信仰生活にもそのまま当てはまるところがあって
御言葉を行うにも
「御言葉をきちんとやる自分、偉いやろ?もっと褒めてほめて」という思いがありました
神様を喜ばせてさしあげたいなあと思って御言葉を実践したことは、ほとんどなかったと思います。
讃美も、お祈りも、その他教会のお仕事諸々もすべて「ちゃんとやってる自分すごいでしょ」
という考えなので
教会のみんなが「もっと神様に栄光を帰そう!喜ばせて差し上げよう!」と盛り上がっていても
「なんでそんなこと、自分の時間を割いてまでしなきゃいけないの?」と
ものすごく冷めた目で見ていました。
自分の労力を割いて、相手のために何かする
この事に対してものすごく抵抗があるのは
「自分の頑張りを誰かに認められたい」という思いが根本にあるために
「自分の頑張りを誰も評価してくれなかったらどうしよう」
「報われなかったらどうしよう」という恐怖があるからだと、最近気づくようになりました。
神様の私に向かう愛はずいぶんとわかるようになってきたけれども
それをただ、受けているだけで
神様に何かして差し上げたい
そうした思いが理解できない
どんな感覚なのか全然イメージできない状態です。
今、このことについて祈っています。
「自分は誰かに認めてもらいたいという欲求があります」
「神様を喜ばせて差し上げたいという気持ちで御言葉を実践してきませんでした」
「相手のために頑張るのは嫌なんです。冷めた気持ちになってしまいます」といった内容を続けて神様に告白しています。
どうすればいいのか
御言葉ですでに答えをもらっているはずですが
その答えがピンと来ていなくて
頭にモヤがかかったようでいて
ものすごくもどかしい状態にあります。
ですが、この重い重い、20年近く背負った重荷をおろせば
きっともっと良くなるだろう、その気持ちでやって行きたいと思います。