私は、この教会の御言葉に出会って本当に自分の根本的な人生の悩みが解かれました。
(この記事作成者 Keyさん)
相手に否定的な感情を持たれることを異常に恐れた
御言葉に出会う前の私は、いつも人目を気にして人に合わせ影響されるばかりで、いい人を演じて疲れて、八方美人のように振舞うことしかできませんでした。そんな自分のことが嫌いでした。優しいよね、と言われてもそれは、本当に相手のことを深く考えての発言ではなく、相手に否定的な感情を持たれることを異常に恐れたから、自分が相手にどう見えるか考えての立ち回りからです。
対人関係にものすごく疲れましたし、これは優しさではないとどこかで分かっていたから後ろめたさが付き纏いました。自分を受け入れ愛することができないから、ましてや相手に本当の意味で優しくするということもできなかったのです。
母親を苦しめるために自分は生まれてきたのか
また、幼いころから目指していた自分の夢も、家族になってほしいといわれて、そう言ったら褒めてもらえるのかもしれない、褒めてほしいという思いから口走ったことで、いつしかそれが自分の夢に置き換わりました。目指していた夢は刷り込みだったと気づいた浪人中に、なぜ自分が勉強しているのか、自分の人生は何なのかわからなくなりました。
ちょうどそのころ家庭内不和もひどく、母親を苦しめるために自分は生まれてきたのかという感情が立ち込め、それでも何もできず、ただ脛をかじって浪人している自分は本当に生きている意味がない、死にたい、でもこんな状態で自殺もできない自分は意気地がないからだと思うようになって、鬱病になりました。
以前は興味のあったことに対しても全く感情が動かず、常に悲観的で、生活の中での簡単な動作(例えばベッドから起き上がること、机に向かうこと、食べること、トイレに行くこと、集中すること…)にとてつもないエネルギーが必要で、生きることに本当にしんどさが充満していました。
そんなで何とか感情に蓋をして結局大学に合格したけれど、本心からの願いではなかったから勉強に身が入りませんでした。
根本的に解決してくれるものは何もなかった
大学生活を送る中で、本当にこのままの自分だと社会人になってから自殺してしまう、変えねばならないという切実な思いで、内向的だったけれど頑張ってセミナーに参加してみたり、イベントを主催したりする自信のありそうな人に話を聞いたり、自己啓発本を読んでみて試したりもしました。
でも、根本的に解決してくれるものは何もなく、結局何かうまくいかないことがあると、家族に対する怒りや憎しみも混ざって、私の人生が狂わされたとか、どうせ私にはできないからと都合よく合理化して言い訳したり、死にたい消えてしまいたいと思う感情が消えることはありませんでした。自分は一生こんな感じで、就職したらカウンセリングに通ったり投薬治療をしてずっと付き合っていくしかもう方法がないのかもしれないと半ば諦めていました。いつも絶望と不安と外界への恐怖とに隣り合わせでした。
「神様がいるならば、なぜこんなにも凶悪犯罪があるのか?」神様の存在に対しては否定的だったが
そんなときに知り合いを通してこの御言葉に出会うようになりました。神様を信じて生きてこなかったので、はじめは何のことを学んでいるのかよく分からなかったです。むしろ神様がいるならば、なぜこんなにも凶悪犯罪があるのか、不慮の事故があるのかと思って、科学的に解明されたことだけは信じるけれど、神様の存在に対しては否定的でした。
しかし、聖書を一つずつ解いていく御言葉講義の中で、解かれ方に科学的にも矛盾がないこと、神様はあまりにも深く大きな愛で人間一人一人を創造されたこと、その人間のために137億年もかけて天地万物を想像されたこと、またその愛の御言葉を伝えてくださる牧師先生を通して、イエス様が私のさまざまな罪までも背負ってくださったことを教えてもらいました。少しずつでしたが、神様と御言葉を信じてその御言葉通りに実際の生活の中でやってみることで、神様の愛を感じられるようになりました。
あんなに悲観的だった私が神様の愛の御言葉でこんなにも変わることができた
本当の愛とはこういうものなのかとわかって、自分が愛されて生まれてきたことを知り、涙が止まりませんでした。心の底から私が探し求めていたものに出会い、その愛によって今まで負った傷も癒されました。
今はどのように生きればもっと理想的に生活できるのか、自分自身を磨くことができるのか分かったし、なによりも生活の中で神様の愛を感じて感謝と希望と喜びを抱けるようになったので、もう死にたいと思うことは完全になくなりました。
最近家族にもポジティブだよね、と言われることがあり、あんなに悲観的だった私が神様の愛の御言葉でこんなにも変わることができたんだなと胸が熱くなりました。
家族から愛されていたことが分かった
家族のことも、私が最初に神様の愛を知ったからその愛で家族を愛することに挑戦中です。最初は、家族のためになぜ私が悔い改めなければならないのかと思っていました。でも、私がこのように相手を憎み許せないと思う罪さえもイエス様は背負ってくださっていたんだなとわかったとき、そのあまりにも大きな愛に涙が止まらなかったことを覚えています。
私が望む愛ではなかったけれども、家族から特に父から愛されていたことが分かるようになり、神様は越えられない試練はくださらないから、神様は私を大きく見てくださってこの場所に生んでくださったのだと思うようになりました。
希望とともに生きられている
また、子供が好きになりました。前は特に小さい子が好きではなくて、なぜなんだろうと思っていましたが、御言葉に出会って解けました。小さい子は、周りの大人が関心を払って、どんな時でもかわいがります。私はそのようにどんな自分だとしても愛してほしかったけれど、現実では愛されているという感覚が分からず、その愛を向けられている小さい子に対して嫉妬していたんだなとわかりました。
いま、落ち込む癖はまだ矯正中ですが、いつも神様の愛と御言葉という、絶対に信じられるものがあるから、希望とともに生きられています。この御言葉に出会わせてくださったこと、死ぬこともないように守ってくださったことに、本当に心から感謝します。この御言葉に出会う人が一人でも多くいることを切に祈ります。