みなさん、摂理にくるといいことばかりと書いていますが、
摂理に来て残念におもったこともあります。
私の体験談をご紹介しますので、摂理に来ようとしている方は気をつけてくださいね。
人前で「アーメン」とか「ハレルヤ」とか言いそうになって焦る
摂理人は、うれしいことがあるたび、神様に感謝して「ハレルヤ」と天に栄光を帰します。
それが口癖のようになり、いつも「ハレルヤ」と言いたくなってしまうのです。
多くの日本の人にとっては、聞きなれないことばですから、
「ハレルヤ!」などと言うと、「ん?」と思われるのではないかとおもい、ちょっとビビってしまいます。
別に悪いことでもないので、言っちゃおうかな。
自転車をこぎながら賛美をしていたら人に聞かれてしまってすごいはずかしい
わたしの教会は田舎にあります。
行き道はほとんど誰もいないような環境なのですが、曲がりくねった道を油断して熱唱していると、
いきなりひょこっとメンバーが通り過ぎて行くのです。
でも、神様しか見えなくなれば、気にも留めないのだろうなとおもいます。
今まで余計なところに時間もお金もつかっていたことに気づく
御言葉を聞くと、何が自分にとって必要で、不必要なことか、はっきりとわかるようになります。
なんであんなことやっていたんだ自分・・と過去の自分を残念におもったことも。
神様やキリストを知らなくても、聖書を読んだり、教会に行ってみたりと
神様に関することを予習する時間にできたらよかったなとおもいます。
「信仰を持つこと」に偏見があった自分の視野の狭さを嘆く
信仰って、日本人以外はみんな持っているものです。
しかし、わたしはひとつのことを信じることに抵抗があったがために、
いつまでも悩んだり落ち込んだり、時間を無駄にしてしまったなと感じます。
信仰を持つということは、教えに従い、制約があって大変だなとおもっていたけれど、
自分が信仰を持つ側になってみると、御言葉は制約というよりも、自由に生きるための基盤のように感じます。
もっと早く摂理に来たかったと惜しむ
わたしは大学三年生で摂理の礼拝に出るようになったのですが、
もっと若くから礼拝に出る方もたくさんいらっしゃいます。
そういう人と出会うたび、わたしも高校生の頃から御言葉を聞いていれば・・と残念におもうことも多いです。
しかし、人には時があるので、一番いい時に来れるようにしてくださったのだと信じます。
摂理に来ようとしているなら、できるだけ早く行けた方が後悔しないかも。
あ〜摂理もっと早く来たかったな〜〜〜