チョンミョンソク牧師が招待してくれたレストランでの出来事

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記事を書いた人  Cassia
東京生まれ 主の岩教会所属
1990年から摂理の教会にきている
51歳 男性 家族は奥さんと娘2人

職業:メーカーの原料購買(いろんな国からいろんな物を買ってくる仕事)
今まで訪問した国:18カ国(アジアが多く、その他にヨーロッパ、アフリカ、オセアニア)
好きなこと:子どもと遊ぶこと、読書、スマホで写真を撮ること

世界の平和を願うってどうすればいいのだろうと思っていたら聖書に出会った。
若い頃は堅固な自分を作りたくて空手や合気道にのめり込み、小さな大会でフルコンタクト空手の部で準優勝。
嫌いな食べ物がなく何でも美味しく食べられるのと、どこでも眠れるので世界中どこでも生きていけると言われている。

自分のことが恥ずかしいと思った経験はたぶん誰にでもありますよね。失敗の多い私には沢山あります。今日はそのうちの1つをお話ししようと思います。

私は普段チョンミョンソク牧師を「先生」と呼んでいるので、ここでもそのように呼ばせて頂きますね。

チョンミョンソク牧師 出典:チョンミョンソク牧師公式サイトより

20年以上前の話ですが、チョンミョンソク牧師の滞在先に観光バスで押し掛けた時のことです。久しぶりに先生に会えるということで私達はそれだけで嬉しくウキウキしながら目的地へ行きました。そして夜になり、先生が私達をあるレストランに招待してくれたのです。辺りは町から少し離れた場所のようでしたが、暗かったので周りの景色は覚えていません。でもとても空気が澄んでいました。

店はそれほど大きくなく、店内には他にお客さんはいませんでしたが、私達が入ったらもう席はいっぱいになりました。こちらのお店は年配のご夫婦でやっていて、先生がお店に食事に来られたのをきっかけにご夫婦と先生は仲良くなり、まだ先生から聖書の話もそれほど聞く時間もなかったと思いますが、先生の大ファンになってしまったそうです。

つまり私達はただワクワクしながら押し掛けただけですが、先生は私達をもてなすために、そのお店のご主人にお願いしてお店を貸し切りにしてもらい、もてなす準備をして下さっていたのでした。

因みに先生は韓国人で、今も昔もそう頻繁に会えるわけではありません。それに先生の周りにはいつもたくさんの人たちがいますから、会いに行ってもお時間を割いてもらうだけでも大変です。それでも先生はそれほどにしか会ってない私達をとても大切に思って下さり、真心でもてなす準備をして下さっていたのです。

そしてこの時は特に先生の滞在先でのことですから、先生と行動を共にしていたのは限られた方々だけで、準備を手伝って下さる方は殆どいなかったはずです。だからきっと先生が自ら準備して下さったことも少なからずあったのだろうと想像しています。

そんなことにも気づかず、私たちはワイワイとお店に入りました。店は屋根も床も木でできた山小屋風の店だったように思います。素朴で温かみのある照明とぶっきらぼうな木製のテーブルが並んでいたのを覚えています。所狭しとテーブルが並んでいて、私はその様子から普段はここまでテーブルを並べてはいないが、私達のために席を増やしてくれたのだろうと想像していました。

暖かな心遣いと魚料理を頂いて、すぐ側のテーブルに先生もいらっしゃり、本当に幸せな時間を過ごさせて頂きました。ほっこり心満たされながら食事を終えた私たちは店を出て、そのままバスに乗り込みました。私は深く考えることもなく、点呼だけ取ったら早々にバスが出発してホテルに向かうのだろうと思っていました。しかしなかなかバスは動き出しません。

「どうしたんだろう。まだかなぁ。。。」とぼんやり考えていました。

それから更にしばらくして先生が店から出て来られたのが見えて、それからバスが出発しました。私は「ああ、先生はどうやら店のご夫妻と話されていたようだな。」と思いました。

しかし実際は私の想像とは少し、いえ、大分違っていたようでした。老夫婦でやっているお店で大人数で食事をしたから後片付けが大変だろうと、先生は一人店に残って片付けの手伝いをして、テーブルを整えて…。そして先生は、私達を無事もてなすことが出来たということでご夫妻に丁寧にお礼を伝えていらっしゃいました。

これを聞いた時に私はあまりの恥ずかしさに穴に入りたい気分でした。20年以上たった今でも、この時のことを思い出すと同じ気持ちになります。

なんで自分はそんなことに気付かなかったのだろう。先生は私達のために知り合って日の浅いご夫婦に協力をお願いして私達をもてなして下さったのに。ただ店で食事してきたというだけという浅い考え、感謝のない自分。それに対して先生の思いやりの深さは私達にも、このご夫婦にも溢れんばかりに注がれていました。

よく人が誰かのことを見上げる時、その人が偉大な事績を残したからとか、大きな位置を占めているからということを挙げますよね。確かにそれも大事です。でもそれだけではダメだと、この時の先生の姿を通して学びました。このように学んでも染みついた癖や行動パターンがあるので、なかなか自分の行動まで変えることは簡単ではありません。結構痛い思いをしながらやっとできたのが今の自分。そういう自分を見ながら、先生はどれだけ自分を作ることに努力されて来たのかとも思います。

そしてこの出来事を目の当たりにして、「ああ、こうだから自分は先生のことが好きなんだよな。」と確認し、また聖書でイエス様が伝えようとしていた人のありようを学んだ気がしました。

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