素直と謙遜

北海道に住んでいる摂理メンバーsato君。100記事更新、おめでとう!
sato君はサラッと素直に話していますが、何気に?凄い人だと思っています。

 

数学で赤点をとった私から言わせれば(←)、数学者という時点で凄い人入りです。
私は人生を二回生きても、数学者とは程遠い人生を歩みそうな気がします。

 

数学者の時点で凄いなと思いますがっ、何より一番凄いなーと思うのは、自分の状態を包み隠さず話すところが凄いなと思っています。これ、簡単なようで簡単じゃないと。出来るようで、出来ることでは無いなと思っています。

昨日の摂理☆祝福の方程式ブログブログ100記事記念:たくさん許されたからより抜粋させてもらいました。

その方が私について本当に素直だねと話してくれました。
そしたら、共に食事をしていた人も、御言葉を勉強している人の話を共感して聞いてて…という話をしてくれました。

satoさんは飾らないんですよね。

と言われましたが…。
確かに、私は最近人によく見せようということはしなくなりました。力を抜いて、自然体で過ごしています。
でも、これは自分でできているわけではありません。

どうして飾らなくなったのか。どうして話せるようになったのか。

それは、私の中では主に何度も許してもらったからだという確信があります。

率直に告げる、ということは正直簡単ではありません。私も何回ももがきましたし、結構心の苦痛がありました。
それは、自分と向き合い、出来ない自分、罪を犯す自分、汚い自分を認めるという過程を経るからです。
汚い自分と向き合えないと、隠そうとして話さないとおもいます。
ただ、私の場合は汚い自分を隠していても苦痛を感じていたので、どのみち苦しかったのです。

 

いつも自分と真摯に誠実に向き合っている姿が文章からもとても伝わってきます。
素直であり、謙遜な人が神様を使うということを思い出します。

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謙遜な人がどんどん用いられるということを見てきたんです。高ぶってはいけないんです。
素直で謙遜、それを失ってしまうと、神様が使われなくなるわけです。
神様に使われる人は謙遜で、「はい。はい。」というふうにならないといけないんです。
子どもが、嫌だ、私やらない、嫌だ、嫌だと言うと、子どもも歳取ったろばになってしまうわけです。
先生も神様に使われることは同じです。
「こういうのはもう嫌です、嫌です。」と神様に言ったら、変わっていってしまうでしょう。

聖書にはアハシュエロスのエステルのことが書かれています。
その時代、王の妻であったワシテ。ワシテは謙遜ではなく、自分の考え中心に流れて、言うことを聞かなかったんです。
そこで、言うことに聞き従う人を選ぶということで、新たにエステルが選ばれたでしょう。謙遜な人です。
歳が取ったとしても、摂理長く経ったとしても、謙遜な人はそのまま謙遜な心を持ち続けているんです。

そういう人が最も喜ばれる人です。「違います、違います。」という人じゃなくて。
だから主の中では、アーメンと言って、神様に栄光を帰していくわけです。

2005年5月29日 明け方の御言葉 鄭明析牧師

*アーメンとは、「同意します、本当にそうですね!」といった意味です。

摂理に来てから長く経ったものとしても謙遜と素直さ、これ忘れてはいけないなあと私も自分の心に刻みたいと思います(人´口`)

 

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