たのしくハイキングするつもりが、坂道のきつい山道を全力疾走するはめになった話

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夏といえば、山です。ということで、山に登りました。

茨城県にある、雪入山に登ってきました。

たぶん、こういう感じのコースをうろうろしながら登ったんですけど、ガチでハードコースでした。

 

なぜなら、登山初心者のわたしが、最低週一で登山する経験者と共に走り降りたから。

 

登山に詳しくないわたしが、登山好きなお姉さんに、

ちょっと山連れてってくださいよと軽く頼んだんですけど、快く受け入れてくださったのです。

近所の筑波山とかはいつも登ってるから、違うのがいい!という要望も答えてくださり、

行ったことのない山に連れてってくださいました。ありがたい。

 

山ごとの難易度とかもわからないので、

筑波山と同じくらいか、それよりレベル低めで!とお願いしました。

それで雪入山という、茨城県のかすみがうらの方にある山に行くことになりました。

調べてみると、ハイキングコースもあり、のんびり歩けそうなコンクリートのしっかりした道の写真が載っており、

こういう平坦な山道は、歩いたことがないのでいいかもなあとおもっていました。

 

そして、当日、山に着いてお姉さんは言いました。

「今日は、山を走る楽しさを知ってもらおうとおもっているよ!」

 

山を走る?はしる?RUN?

はじめは何を言っているんだろうとおもっていましたが、山を下り始めるとき、彼女はガチで走り出しました。

あれ!?筑波山より格段にレベル高くなってない!?!とおもいながら必死でついていきました。

 

しかも、ネットで調べて出てきた写真と全然違う道でした。

コンクリートの道とかほとんどないし。

常に、一歩踏み外したら、こけるか落ちるかのどちらかしかないような山道でした。

 

思えば、何日か前に、「毎日スクワットしておいてね」と言われたあたりで気づくべきでした。

登り始める段階で、あれ、いきなり上り坂きつくない(^^)???と感じたあたりでも気づくべきでした。

でも山って、登ってみないと道がわからないから、いつか楽な道になるんじゃないかなあとおもったのです。

登り終わってみてわかったのですが、終始きつい道しかありませんでした。

 

超悟り深い。

あの一言を深く考えるときにその意味がわかり、その通りに行うことが必要だったと後から実感したように、

御言葉も、聞いたそのときに貴重に思い、行なうことだとおもいました。

そのときにわからないことも、後から意味や理由がわかり、必要なことだと悟るのだなあと感じました。

 

そしてこの山のように、人生も同じくそうなのだなと感じました。

いつか楽になるだろうと期待してる場合じゃないのです。

山を知るには登らねばならないように、人生を知るにはつらくても生きるしかないのだとおもいました。

 

この先に何があるか一切分からないけれど、目の前に山があったら登るしかないじゃないですか。

なぜなら、登らないと次にいけないから。

同じように、わたしの前にはいつも問題があります。でも目の前にあったらその問題と向き合うしかないのです。

この問題から逃げてばかりでは、次の次元にいけないからです。

 

つかれて力がなくなって休むときもありますが、その場所に停滞している状態がなによりも苦しいです。

だから主の中で休みながら、走り続けるのが本当にいい道なのだなと感じました。

 

山に行けば、続けて登るか帰るか、どちらかしかないけれど、

どっちがおもしろいかと考えると、登る方が絶対におもしろいです。

そしてわたしにはプライドがあります。

体力がないようだから帰ろうか?と言われるなら、屈辱です。

 

わたしは摂理の道も同じような思いで走っているのだろうかと感じました。

このように摂理を走っているなら、わたしには愛が足りません。

神様を愛するから、喜ばせて差し上げたいから、わたしは進み続けますといえるようになりたいとおもいました。

 

山を下り降りて、広場に出てきたとき、登り終えた!と喜んだのですが、まだ帰る道がありました。

しかも、帰りは別のコースから行くということで、

直登コースという、今までにないほど急な坂を登るようになりました。

 

ふつうに登って下りていればたぶん大丈夫だったのですが、

全力で走った後だったから、わたしの足はかなり重くなっていました。

 

そして、登っている途中、登山において初めての限界にぶつかりました。

わたしは今まで、登山で止まることはありませんでした。

むしろ「大丈夫?」とだれかのために止まってあげる方でした。

わたしは「こ、これ以上進めない!」というところにぶつかりました。

 

お姉さんがうしろから押してくださり、ちょっと楽に進めましたが、

もうほとんど足が上がりませんでした。これが限界なのか!と新鮮に感じました。

 

わたしが限界だろうとなんだろうと関係なく、山だから進むしかありません。

神様を呼んで、神様をつかんで行くしかありませんでした。

このように、神様を命綱のようにつかんで限界を乗り越えていくのだと感じました。

 

そして、このように、わたしが限界だとおもっていることも、実際に体が限界になっても、

神様の歴史を行くとき、それはどうでもいいことだ!とおもいました。

限界かどうかに関係なく、行うことでしか成功する道がないからです。

この登山のように、無我夢中でやってこそ、もっと突き抜けるのだとおもいました。

 

ようやく、急すぎる道を登り終えると、また下り坂を行くようになりました。

わたしたちは、また走りました。

 

ものすごい速さで景色が変わっていくのを見る中で、

わたしは神様が全て用意なさった大きな環境の中で生きているのだなあとおもいました。

神様は、万物によってわたしを生かし、神様の存在を知らせるのだなと感じました。

単純に、神様ってすごい。とおもいました。

 

地面はぐちゃぐちゃで、転びそうになっては踏みとどまりを繰り返しました。

降りた後は、汗でベトベトだったし、泥だらけでした。

でも、主と共に駆け下りたから、最高だったのです。

確かに、山を駆ける楽しさを味わいました。

 

よいイベントを神様が用意してくださったなあとおもいます。

こんなに筋肉痛になったのも久しぶりです。

今日は1日、階段が登れませんでした。明日はちゃんと歩けるといいです。

 

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