「神頼み」についての雑感

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「神頼み」という言葉はよく聞かれるものである。

日本でもよく神に頼るシーンはどこにでもある。例えば、

好きなもの二つのうち、どちらか一つを選ばなければならないシーン。

「え~、どっちにしようかな~。どちらにしようかな、天の神様の言う通り・・・」と、幼い時友達がよくやっていたなあ、、と思いつつ、その謎の(?)おまじないの締めくくりが「柿の種、ご飯粒・・・」となるのはどうしてであろうか、とこのブログを書きながらしょうもないことを考える僕である。

というか、日本は神様を信じているのか、仏を信じているのか、よくわからない国である。どれだけいいとこどりをしたら気が済むねん(笑)、と突っ込みたくなるほどにぐっちゃぐちゃである。バイキングに行って、一つの皿にスープやら、ご飯やら、オレンジやら、ヨーグルトやら、たくさんとりすぎた挙句に全部混ざってしまって味が台無しにしてしまっているようなものである。

そんなたとえはおいておいて、「神頼み」と聞くと、皆さんはどのようにイメージするだろうか。

神官さんが白い服を着て白いフリフリが着いた棒をお経を唱えながら振り回している後ろで、人が土下座して祈っている姿とか、絵馬に自分の願い事を書くとか、そういったことではないだろうか。

そうしたものの考え方をする人たちは、「とりあえず神様に祈っておけば何とかなるだろう」といった考えではないだろうか、と僕は思う。こうしたことをしておいて、願いがなされなかったら、「ほら見ろ、やっぱり神様はいなかったじゃないか。」「奇跡が起きなかった。だから神様はいない!」などと結論付けるのである。

しかし、そんな結論を出す前に、一度摂理の御言葉に耳を傾けてほしい。

そもそも、一つの物事がなすことは、人と神様の責任分担がかかわっている。言い換えると、神様が果たす責任と、人が果たす責任がある、ということだ。

それを考えると、神頼み、つまり神様に祈っておけば万事解決といった考え方はおかしい。確かに祈ることによって状況が変わることもあるだろう。しかし、それは神様がその人に「私はあなたと一緒にいるよ」ということをわかってもらいたくてそうしたのであって、100人が同じ祈りをしたからとと言って、同じ状況になるわけではないのである。ただ祈って奇跡を信じて待っていてはいけない、というわけだ。

 

<strong>『雨が降るから雨漏りがするといって雨が降らないようにしてくださいと祈る人もいます。</strong>

<strong>100人がこのように祈ったら、その中の一人の祈りは聞いてくださって、雨が降らないようにしてくださるでしょう。</strong>

<strong>神様がともにしていると悟らせてあげるためです。続けてこの奇跡を信じてじっとしていてはいけません。』(摂理 鄭明析牧師の御言葉)</strong>

摂理の御言葉を聞いていても、途中であきらめてしまう人がいる。それはなんでだろうか、と考えるとき、こうした誤解も一つの原因ではないだろうか。

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多くの人は「奇跡」を待ち望む。誰かが今自分が直面している問題を解決してくれないだろうかとか、自分がもう一人いれば締め切りに追われた宿題が片付くのに、といったことである。しかし、そうした奇跡は自分がじっとしていたら何も解決しないのである。直面している問題を1年放っておいたからといって自然にその問題が解決されないし、自分がもう一人増えるのを待っていたらいつまでたっても宿題は片付かないのである。

奇跡を起こすにはまず、自分が責任をもって行動を起こすことである。奇跡を起こそうと最善を尽くすことである。行動を起こしたとき、神様はその人を見て、さらに大きな奇跡を与えてくださるのである。

<strong>『自分が行なって「奇跡」を起こした分、毎日一つでも、三つでも、十(とお)でも「奇跡」が起こる』(摂理 鄭明析牧師の御言葉)</strong>

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