摂理の教祖についていくということ

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教祖という言葉の意味は、宗教を始めた人。

鄭明析という人は、摂理を始めた人物だから、摂理の教祖です。

 

問題は、教祖のイメージです。

「教祖」ということば、変なイメージがありませんか。

教祖ってだけで、あやしいことをしている人のような気がしませんか。

それをちょっと考え直す必要があると思いました。

 

わたしも新興宗教の教祖といえば、

ひげをもじゃもじゃ生やして、パジャマなのか着物なのかわからない服を着て、

よくわからない専門用語を話してばかりの人をイメージしていました。

まあ、そんな人ばかりでもないです。

 

摂理の教祖は、きれいな白スーツに、きっちり7:3分けの髪型でキメる方です。

たまに、8:2かもしれない。神様の前に、いつもすてきな姿で出て行きます。

あと、わたしたちみんながちゃんとわかる言葉を話してくれます。笑

 

ところで、教祖といえば、「完全教祖マニュアル」という本があるようです。

読めばだれでも教祖になれるというジョーク本。

この中に、「3大宗教も最初は新興宗教だった」という内容があるそうです。

そう考えると、2000年前、イエス・キリストは新興宗教の教祖ということです。

 

身分も学歴もないイエス・キリストです。

今まで伝えられてきた旧約聖書の内容とちがうことを人々に伝えた新しい人。

彼は最後、ものすごく悪口を言われて、殺されてしまいました。

わたしもそのときそこにいて、完全に信じてついて行けたかというと、ちょっと自信がありません。

 

しかし今は、イエス・キリストを信じるキリスト教が一番大きな宗教となりました。

たくさんの教会が建てられて、たくさんの絵画が描かれました。

聖書を元に、政治を行い、科学が発達し、芸術の世界が広がりました。

キリスト教徒がとっても少ない日本でさえ、キリスト教から来ている考え・学問・文化が染み込むほどです。

 

今では、キリスト教という宗教も、イエス・キリストという教祖も、おかしく見る人はあまり見かけません。

最近は、他国の文化、違った宗教も受け入れる考え方ですから、なおさら。

 

キリスト教が変な宗教だ、あそこの教祖はおかしいと言って攻撃する人がいるなら、

他国の文化を受け入れない、考えの古い人、と逆に非難されることもあるのでは。

 

そう考えると、今の新興宗教のうち、どれかが本当に本当で、そのうち今のキリスト教のように大きくなって

普通の宗教だと認められる可能性も大いにあります。

1000年、2000年先まで続く宗教になるかもしれません。

 

ひとりの教祖についていくということは、リスクが高いです。

正しいとは言えないことをしている教祖も多くいるから。

誰についていくかで生きる道が決まってしまうから。

 

教祖をビジネスにしている人もいるでしょうし、

精神がおかしくなって教祖になった人や、大変な境遇の中で、しかたなく教祖となった人もいると聞きます。

 

しかし、絶対的に信頼できる人をみつけ、その人についていくとき、本当にそれだけの価値のものを得ます。

教祖という存在は、人生の道を導いてくれます。

本当に全てをわかった教祖についていくとき、人生をわかって生きられるということです。

だからこそ、本当についていくべき人がだれなのか、自分で判断することが必要です。

 

もし自分が教祖になれるとおもうなら、自分を信じて行えばいいです。

神様の真理の御言葉を完全に伝え、すべての人の霊と魂と肉が生きられるように導くことができるなら、

あとはもう、自分が全世界のために行えばいいです。

でも、これってだれでもできることではないとおもうのです。

 

2000年前、それはイエス様がしたことでした。

イエス様にしかできないことだとはっきりわかった人たちは、この教祖についていきました。

わかった人たちは、死に物狂いでこの方こそが救い主だ、と叫び伝えました。

最後までわからなかった人たちは、わからなかったまま終わりました。

 

クリスチャンがイエス・キリストという教祖を信じ、仏教徒が釈迦という教祖を信じたように、

わたしも鄭明析という教祖を信じているところです。

それは、この教祖が、本当に正しいことを言っているとわかったからです。

この人についていくなら、わたしは人生が成功すると確信したからです。

 

信仰宗教、教祖、聖書、いろいろなイメージがあるとおもいます。

自分がどんなイメージを持っているのか、果たしてそのイメージはその通りなのか、一度考えてみてください。

 

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