先生、指導者という存在が脅威だったし、苦手だった話

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わたしは、先生という存在がずっと苦手でした。

小中高、いつも怒られてきましたし、あんまり仲良くなれませんでした。
いつも先生を怖がりながら過ごしてきました。
ちょっとしたことで厳しく怒るし、
わたしが悪くないことも怒るし、
先生の言うとおりにしなかったら怒るからです。

わたしは怒る人がきらいでした。
みんな怒ってばかりで、わたしは話がしにくいなあとおもいました。
先生が怖くて、いつも先生の顔が見れませんでした。

 

今考えてみれば、幼いわたしの知恵のない行動に
先生方は、さぞかしあきれていたのだろうなあとおもいます。

もっと伝えようとすればよかったし、
いろいろと気にしない心も持っていたらよかったなあとおもいます。
先生とのコミュニケーションが下手だったのだとおもいます。

わたしにはいつも怒るけれど、
わたしの横の人にはいつも良くするから、一層すきになれませんでした。

そういう経験の中で、だれが悪いともいえないけれど、
わたしは先生に対して苦手な意識を持つようになりました。

でも、その中でも良い印象の先生が一人、二人いるから、よかったなとおもいます。

 

一人は、小学生のときの担任の先生です。
その方は、低い先生でした。

身長ではなく、姿勢が低かったのです。
外見的な姿勢も、確かにちょっと低めでしたが、
なにより内面の姿勢が低かったのです。

あまり怒らないし、間違ってもやさしく教えてくれるから、接しやすかったです。
この先生なら、いろいろなことが話せるとおもいました。

 

もう一人は、中学校のときの担任でした。
その方は、わたしの個性を認めてくれる先生でした。

その先生が、たまたま、わたしが書いた文章と詩を読みました。
それで、先生がわたしを呼び出しました。

その先生は、よく生徒を呼び出して叱る先生でした。
わたしははじめて呼び出され、怒られるのかとおもいましたが、ちがいました。

あなたの文章がいいから、文を書く仕事に就いたらいいと思ったよ。
と先生は私に話してくれました。
この先生は、わたしの価値を教えてくれるとおもいました。

 

それから最近、御言葉を聞きました。

指導者は、低くしないといけない。
もっと多くの権力を持てば持つほど、もっと低くなるべき。
イエス様は、一番低い人たちと目線を合わせた。

そのような話でした。

わたしは学校や塾や、集団のコミュニティの中で人と比べると、
優等生、優秀というよりは、パッとしないタイプの人でした。
たくさんの人を治めるとき、そういうパッとしない人は、見落としがちです。

でも、わたしは御言葉を聞きながら、そういう人たちも含めてすべての位置にいる人が
個性の光を放っていけるよう導く指導者になれたらいいなとおもいました。

自分のいつもの考えなら、よくできる人、心配な人、その人ばかり焦点を当てて気にかけますが、
神様の考えは異なり、全ての人をくまなくご覧になり、愛します。
優秀な人だけ愛するのではなくて、全ての人を切実に愛します。

摂理のいいところがあります。
全ての人を尊い人、本当に価値のある人として導いてくれるところです。
摂理の指導者は御言葉に従い、神様の方法、神様の愛で導くからです。

そうするためには、やはり自分が低くなくてはいけません。
愛するために、みんなの元に降りて行く必要があります。
わたしも、もっと高い次元で、もっと低いところに挑戦したいとおもいます。

 

 

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