あの人と重なる

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私は今、教会に通わずに、一人で信仰生活を送っています。

今日も明け方に起きて、さあお祈りしよう、と祈り始めた時、一人の摂理人の姿が思い浮かびました。

その人は、私がつくば教会で、一緒に走ったメンバーでした。

といっても、その人は女性で、仕事も忙しかったため、ほとんど会話をしないまま、仕事の転勤でつくばを旅立ちました。

私がその人のことについて覚えていることは、

なんか難しい研究をしている人だったということ、

納豆が大好きだったということ、

意外とこてこての関西人だった、

ぐらいなんですが、

あと一つ、ものすごいお祈りを熱心にされる方でした。

 

仕事がすごいハードなんですが、毎日明け方のお祈りをしに、一番に行ってお祈りをしている方でした。

いつも教会の隅っこの方で、お祈りをしていました。

当時私は大学生だったのですが、「ああ、あの人すごいなあ」というくらいにしか認識していませんでした。

でも、祈っている彼女の後姿は、真実に神様と一対一で向き合っているように見えて、かっこいいなあ、と思ってもいました。

あんな風に祈れるようになりたいな、でも自分にできるのだろうか、と思いながら、祈っていました。

彼女はいま、海外で働きながら一人で信仰生活を送っているそうです。

 

今、私は場所は違えど彼女と似たような状況にいるんだな、と感じました。

一人で信仰生活を送って痛感するのは、

結局は自分がきちんとできなければならないのだということ

家事をさぼると自分に全部帰ってくるということ

御言葉を読むことも祈ることも、パソコンで御言葉を補うことも、

全部自分からやらなければ、誰も自分を助けてくれないのだということ

そして

神様はいつも自分を見てくれている

どんな自分でも助けてくれる

ことです。

今の場所で働くようになって一年。

周りはみんな御言葉を聞いていない人、神様を信じない人だから

話が合わない。

自分が頑張っても、誰も見てくれないことがある

誤解されて、怒られるときもある

善い人ばかりではなく、悪い人も確かにいる

そうした現実に、「このままでいいのか」と

押しつぶされそうになる時もあります。

 

でも、神様は今、自分の頑張りを見てくださっている

そう信じて、御言葉にしがみついて、できることをしていったら、

今では疲れていても、なんもやる気は起きなくても

とりあえず御言葉だけは・・・

祈りだけは・・・

と神様に対して貪欲になっている自分がいました。

 

恐らく、彼女も同じ感情を抱いているのではないでしょうか。推測にすぎませんが。

 

そして、彼女の姿だけでなく、御言葉を教えてくださった先生にも重なります。

育った環境も、田舎だから遊べるところは何もなくて

お金もないから、その日の飢えをしのぐだけでも精いっぱい

畑を耕し、薪を集めて、

死に物狂いで働いて一日が終わる

そして目が覚めたら、また働くだけの一日が始まる

 

そんな自分の人生がむなしくて

何のために生きているんだろう?

手元には聖書一冊しかない

これにすべてを懸けるしかない

そうやって御言葉を、神様から学んでいった

お祈りも膝が擦り切れるくらいに祈って

神様に縋りついた

と先生が以前教えてくださったことを思い出しました。

 

先生が過ごした幼少期とは、

時代も生活水準も、全然違うけれども

神様に縋りつくしかなかった

そうおっしゃった先生の心情は

彼女の祈る姿と、私の現在の経験をもって

少しですが共感できるようになりました。

 

 

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