「私は、それほどまでにやってないから使命降りたほうがいいんじゃないかと思うのですが」

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たまにこういう相談をしてくるかたがいます。

 

「私は、それほどまでにやってないから、使命降りたほうがいいんじゃないかと思うのですが」

 

ケースバイケース、様々な状況があるので一概には言えないですが
いつも感じるのは
「ここまで使命の価値を分かってること自体が、使命者であることの証だ」
ということです。

 

ある一つの使命、役割を果たすときに、それがどういう意味と価値があり、どのくらいまでやるべきなのか
分かってやることはとても重要なことです。

小さなことでも大きなことでも、 <自分が任された使命の価値>を忘れたら死ぬ。
小さなことでも大きなことでも、 <自分が任された使命の価値>を忘れたら死ぬ。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より

 

大体、こういう方は普段から使命について考えてる方が大半です。

 


<試験>を中心にして評価して使命を任せないで、
<平素>よくやっているなら、使命を任せなさい。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より

 

平素、普段から一生懸命に考えているからこそ、自分が<出来てる><出来てない>を考えるようになります。
一生懸命でないなら、そもそも どのくらい自分が出来てるということを考えません。

 

「私は、それほどまでにやってないから使命降りたほうがいいんじゃないかと思うのですが」
このようにおっしゃられる時点で、私は尊敬します。
毎日、謙遜で検討している人と言えます。

 


使命をもらえばもらうほど、毎日個人と信徒たちの前で謙遜に行ない、
いつも自分を検討しなければならない。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より

 

一時的に、動けないこともあるかもしれません。
でも使命は人が与えるものでもなく、神様が与えるもの。
神様は、その人が一時的に動けなくても続けることを望んでいるのか、使命を離れることを望んでるのか。
祈りで神様に相談することが大事です。

神様は、その祈りさえ全てをご覧になられていらっしゃいます。


誰も見ている人がいなくても、神様と聖霊様と御子はすべてご覧になっている。
偽りなく行なったとおりに「使命」を任せる。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より

 

そして使命自体も大事ですが、三位と一緒に生きることが最も大事。

 


三位一体がくださった使命を果たすにしても、
その仕事にばかり溺れて行なったら、
三位一体と離れて生きることになる。
いつも交通だ。対話だ。
鄭明析牧師の明け方の御言葉より

 

名前の付く使命があってもなくても、神様と一緒に生きることには変わりはないのです。

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