鄭明析牧師(チョンミョンソク)とベトナム戦争

鄭明析牧師とベトナム戦争
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チョンミョンソク牧師は21歳の時に軍隊に入隊し、ベトナムに派遣され、ベトナム戦に2度参加しました。

 

目次

ベトナム戦争の参加命令

-鄭明析牧師ベトナム参戦記より-
1966年にベトナムに行く前、私は山と地が崩れる思いで薬を飲んで岩に体を投げて死のうとしたことがあった。
全ての夢が壊れたからだ。神様が壊してしまったのだ。

しかし、後でわかってみると、それもより良いものを与えるための神様の計画だった。

最初には訓練場で、「軍隊から出して下さい」と祈った。

今まで骨を削るような痛みを我慢し、献金もたくさんして熱心に頑張ったから、
「私が行かなくてもいいはずなのに…。私を必ず入れてしまうつもりなのか」ともがきながら祈った。

しかし訓練場の内務室で聖書を読んでいる時に、
「あなたは行くべきだ、私が愛する者が行くときに私がもっと関心を注げるのではないか」という声がした。

やがてベトナム戦争に参加することも自分のための試練だ、とはっきり気付くようになった。

 

訓練場の時代

-鄭明析牧師ベトナム参戦記 1986年4月20日の御言葉より-
訓練場で次のようなことがあった。
訓練の後は、5分間の休憩があったが、訓練場ではものすごく厳しい扱いを受ける。

ある時、私は5分休憩の時に目上の人に話しかけてみたが、その人は見向きもせず、びくともしなかった。

そして次の休み時間にまた声をかけた。
そのように何回か繰り返すうちに、「君、煙草を1本くれないか」と言われた。

「私は教会に通っているのですが」
「教会? イエスを信じているのかね?」
とただ一言二言だったが、言葉を交わすようになった。

 

その時はとても嬉しかったのを覚えている。

「君、煙草も吸っちゃいけないところへ行くなんて」と言われたが嬉しかった。
そして次に訓練を受けるときは、それほど疲れがこなかった。
むしろとても嬉しかったのだ。

 

周りの人たちには退屈でも私にはとても良かった。

そしてまた訓練が終わって休憩に入ると、先ほどは煙草がなくて対話が途切れたので、今度は「煙草の1箱でも買ってあげなければ」と考えた。そうしながら、互いに通じるようになった。

 

その次には訓練官のところにいって質問をしたりした。
「どうすれば訓練が上手に受けられますか?」と聞くと、
「無理矢理受けるのではなくて、自ら受けるときに上手くできるんだ」と答えてくれた。
「折角受けるのだから無理矢理受けるな」ということだ。

 

「ああそうですか。心の持ち方によるんですね。ところで故郷はどこですか。」
と声をかけると、
「私? キョンサンドだ。」
「ああ、キョンサンドですか。キョンサンドの人は何かしっかりしたものがありますから、私はその性格を見習いたいと思いますねえ」。

 

そのように1回会って、2回会って訓練官と親しくなるうちに、同期生たちがわたしをたずねてきた。
「君、あの人と知り合いなのか?」
「そう、知り合いさ」
「どういう知り合いなのか?」
「訓練を受けながら知合うようになったんだ」。
私が上官と度々会うのでうらやましく思ってたずねてきたりした。

 

その時、その訓練官が特に何か良くしてくれたわけではなかったが、精神的に大きな力と慰めになり、訓練の時に負担にならずに済んだ。他の人は訓練を受けるのをすごく怖がっていた。

 

訓練を受けるときには実際、噂話がたくさん出回る。
「何か一つでもなくせば監獄行きになるのだ。何とかされるんだ」
という噂も出回っていた。

 

そのため、その人の所に行って聞いてみると、
「それは全部嘘だから心配するな」と言ってくれた。
そして、「もしなくしてもまたもらえるんだ」と話してくれた。
その話を聞くと安心して頭が痛くならずに済んだりした。
訓練をする本人がそう言ったのだから安心だ。

 

それでは、なぜそういう噂が出回っているかと聞いてみたら、
「なくさないようにするためだ」と言った。
そう言っておくとしっかりと気をつけるからなくす確率が低くなるんだ、と言った。

 

その時、人は対話をすることが大切だ、指導者は寂しくて、とても複雑な心境ですごしているんだ、ということを悟った。
それから対話をすることが習慣となり、話をしなくなったらむしろ口が痛くなった。

 

以前にはバスの中や乗り物の中でも、必ず隣の人に話しかけたりした。
「この世に生まれて初めて一緒にここに行くんですね。」と言って声をかけたりしたが、相手はただ見るだけで返事をしなかった。
しかし私が続けて話すと、一言返事が返ってきたりした。そのように、一言答えが返ってきたところから会話の花が咲いたりもした。

 

「必ず生きて帰る」-鄭明析牧師によるベトナム戦争の記録-

私は祈った。
「神様、富と栄華もいいけれど、主がおっしゃった通りに本当に全世界を受けてもかえられない命です。
ただ命だけでも生き残って、国に帰れるように助けてください。」

隣の戦友たちの話が耳に聞こえてくる。
国に帰るとき、カラーテレビも、録音機も、冷蔵庫も買って帰っていこう。
私はベトナムの女の人を一人連れて帰っていこう、という話などで、
彼らはみな、物質の愛に対する心に膨らんでいった。

しかし私は、
「おお、主よ。私の願いはああいうものじゃないのです。
ベトナムの地にいる限り、私の願い「ただ私の命が生き残って、親、兄弟が待っている国、ふるさとへ帰りたい」
という思いは叶えられません。ただ私は生きて帰れるなら、どんなにいいでしょうか」
と、命に対する愛着心をそんなにも深く感じたことはなかった。

私は、命がどんなに尊いもので、価値あるものなのかを骨身にしみるほど感じ、天を仰ぎ、愛が熱くなるほど祈った。
しかし何の答えもなく、心に響きわたる答えもなかった。
瞬間私の目の前には、小さな川のように涙が流れていた。

私が生きて帰ることが難しいことじゃないか、と思い、ただ天の前で運命を預けようと思っていた時、神様
が私を見ているような気がした、私はまた切に祈った。
「ぜひこの戦争で任務を果たし、生きて帰ってこれるようにしてください」
という、切なる愛をもって祈った。その時私の胸に声が聞こえてきた。

「あなたが全世界をうけてもかえられない命の価値性を本当に悟り、尊いものとして考えているから、
あなたが必ず生きて帰れるようになるだろう。私は全世界のすべての命を主管するエホバなのだ。」

これは他の人が耳で聞くことができない悟りの答えだった。
2回目の私の目には、大きな川のような涙が流れていた。

その時の喜びというのは、全世界をあげてもかえることができない喜びだった、と言いたい。

鄭明析牧師の言葉より

 

ホンギルトン作戦の時、捕虜を捕まえた話

鄭明析牧師とベトナム戦争

-鄭明析牧師ベトナム参戦記 1986年4月20日の御言葉より-
1966年から69年の期間は、自分の人生の中で、命をかけてベトナム戦争に参加しなくては、自分が存在することができなかった時だった。私は6歳の時に、朝鮮戦争(1950.6.25の韓国戦争)を経験したが、それよりもっと激しい戦争を直接体験したのだ。
ベトナムで多くの戦闘を繰り返しながら何回も敵の武器を奪ったことを覚えている。

 

一度は40日間密林の中を歩き回って、一人の敵も見つけられないことがあった。

 

当時我が軍から200里離れた敵の陣営に深く入って行ったとき、それによって韓国軍全体が動くホンギルトン作戦が開始された。その当時8人の特攻隊員が行動を開始したが、私もその中に含まれていた。

 

敵と連絡をする前夜に私は不思議な夢を見た。今も夢をよく見るがその頃も部隊の仲間が私の夢なら認めるくらい、よく当たっていた。そして作戦の前の晩も私は不思議な夢を見たが、朝起きて考えてみると、その日に必ず捕虜を捕まえる予感がして、昔捕虜を縛る紐がなくて慌てたことを思い出し、落下傘の紐を取って後ろのポケットに入れてすぐ作戦に臨むようになった。

 

私の前に3人が先に行って、他は後ろからついてきたが、しばらく進むと、突然ダダダダ、という強い銃の音がした。その音が我が軍のものならば敵が死んだはずだし、敵軍の音なら我が軍が死んだはずだ、という判断をして状態を見てみた。実際、密林地帯は平地とは違って、射程距離が大体目の前、目と鼻の先くらいの距離なので、目をつぶってでも当てることができた。

 

我が軍の銃の音だと良い方向に考えながら、敵の陣営に到達した。そして1時間の間、戦闘があった。手瘤弾が投げられ、銃の音はすごく、周りはもうもうと煙が立ち、まるであの世に来た気分で、銃に撃たれたか手瘤弾の破片に撃たれたかわからないくらい怖い瞬間が続いた。

 

すると小隊長の「射撃ストップ」という命令が下った。そしてその後に捜索が始められた。

 

その時私がいる場所の目の前の小さな洞窟の中から、敵軍の兵隊がそろそろと私の所に近付いてきて、前方5mくらいの距離に立ち止まった。その人は小さな銃と手榴弾を持っていたが、私は一挙に30人から50人を殺せる特別な銃を持っていた。

 

その銃は30m以上の距離で発射して初めて自分自身が逃げられる余地のある銃だったが、それより近い距離で銃を撃つと、自分も敵共々吹き飛ばされてしまうものだった。こう判断したときに私の方が不利なのに気付いた。しかし逃げることも、仲間を呼ぶこともできない状況だった。やはり人間は知恵がなければ生きることができないのだ、と切実に痛感する瞬間だった。

 

敵は私が目の前にいることに気付かないでどんどん近付いてきたので、思わず「手をあげろ!」と叫んでしまった。しかしそれは脅し言葉に過ぎなかった。しかし敵軍は驚いて思わず両手を挙げてしまったのだ。きっと私が持つ銃の銃口の大きさに驚いたのだろう。結局、作戦地域の中では、りりしく大胆でなければ命を落としかねないのだ。私が相手と直面した瞬間に不満不平を漏らさず、不可能はないと考えて銃で脅したから、敵はその銃口の大きさに度肝を抜かれてしまったのだ。

 

戦場で一番怖い言葉が「首を切る」という言葉だが、私が手を首につけながら「ゲコラウ(首を切る)」と言うと、「それだけはしないでほしい」と切に訴えてきた。そういう中で、朝、後ろのポケットにいれておいた紐があることを思い出して、「手を後ろに回せ」と命令して手を縛った。それでやっと安心できた。張り切っていた敵のベトコンも、一旦捕まえたらどうしようもなく小さくなってしまうことを私は見た。実際、サタンや悪霊も一旦捕まえておけば怖いものではない。

 

戦場で死んだ敵の死体を見たら本当にかわいそうになった。「こいつもあんなに大声を出して張り切っていたのに、本当にかわいそうだ」という気持ちがたびたび起こった。私は自分の捕虜を安心させ、食べものを与えたら、その人は受け取って食べた。

 

私は彼に「私は神様を信じる人だから、人は殺さないんだよ」と言った。人がどのくらい安心感があるかどうかは、食べものを与えたときにそれを食べるか食べないかですぐ見分けられる。

 

私は作戦をする時も楽しくやった。他の人は作戦をするたびに、いつ死ぬかわからない、という恐怖の余りノイローゼにかかったりしたが、私はおもしろく過ごした。私はその人(捕虜)を小隊長の所に連れて行くと、「こいつのせいでオレ達が苦労するんだ」、と言ってその人の頬を何度も殴った。しかし私は「本当は、この人が私を撃ったなら二人とも生きていなかったのです。だから打たないで下さい、大きな任務を持っている人に見えますから、そう悪くしないで下さい」と小隊長にお願いした。

 

戦争をする時、一番困るのが捕虜の問題だ。捕虜を通じて敵の情報を得るのだが、情報を教えない捕虜は結局殺されるし、仮に捕虜が情報を教えるとしても殆ど一割しか告白しないから、その一割の情報によって味方の軍が大きな被害を受けてしまう場合がある。私は捕虜をたくさん捕まえることはできなかったが、4人は捕まえた。

 

結局、その捕虜が、敵の陣営の中に師団長が来ている、と白状したので、作戦が試みられたことがあった。またその人の協力によって小銃107個が埋められているところを発見し、こっそりとそれを全部引受けたこともあった。そのように敵の陣営の中で活躍したことによって、私はハランムゴン勲章をもらうようになった。1人では全部受けることができないため、18人が同時に受けることになった。

 

その戦いの内容がホンギルトン作戦という軍隊映画として撮影された。

 

人生の虚しさを悟らせたトゥイフォア戦闘

-鄭明析牧師ベトナム参戦記より-
ベトナム戦争のトゥイフォア戦闘で夜通し戦い続け、翌日夜が明けてから、100m前進して昨夜戦った結果を確認してみると、それは目を開けては到底見られない悲惨なものであった。200人以上が死んで、死体があちこちに散らばっていた。

 

人が死んでいるのを見たら、まるでちっぽけな存在のように見え、死んだ獅子は生きて飛んでいる蝿よりも勝ることはないのだと悟った。この時「人生は虚しいんだ」と語ってくれる霊の声が聞こえた。

 

「人生の肉は虚しい、虚しいのだ。誰でも場所が違うだけであって死ぬのは同じだ。来世の宗教がなければ、また救いがなければ人生というものが一生の間、どれほど虚しく過ぎていってしまうのか。だから霊の世界がどれほど必要なのか。人間にとって霊がどれほど必要なのか。また神様が人々にどれほど必要な方なのか」という声だった。

 

無線兵時代:無線機の事件

命の恵み<鄭明析牧師先生とベトナム戦争>2

-鄭明析牧師ベトナム参戦記より-
私がベトナムに行ったとき、何ヵ月間かは無線兵として勤めた。
それで無線機を背負って行ったりした。
あちこちで砲弾が落とされたり、飛行機が落ちたり大変な状況が起こったが、そういう時でも他の無線機は駄目だとしても私が背負っている無線機にだけは連絡がきた。

 

軍の上部から、「そこはどこだ。見た通りに報告しなさい。飛行機は落ちたのか。翼は折れたのか。銃は奪われたのか。車はどうなったのか」という無線が飛んでくるのだ。

 

それで私が、「どういう奴だ。どういう奴が、礼儀無しに語ってくるのか」と知らんぷりしながら語った。

 

「とんでもない! 人が怪我をしているかどうかは確かめずに、飛行機の翼が落ちたかを聞いてくるなんて…。パイロットが怪我してるかどうかは聞きもせずに。あなたは韓国人ではないか。韓国人がいかに貧しい国で住んでるとしても、貧しければなおさら命の尊厳性を大事にしなければいけないじゃないか」というように言った。

 

「あなたは誰だ。この無線は間違ってかかってきたんじゃないか。北朝鮮の方からかかってきたのではないか」「あなたは全世界をもうけても代えることができないものが命だ、という聖書の言葉を読んだこともないのか。そこらにあるありふれた教会にも通ったことがないのか。クリスマスの時におもちを食べにいくだけでもそういう話を聞けるのに、とんでもない。飛行機が墜ちたかを先に聞くなんて。飛行機が墜ちたなら、どれほど多くの人が死んだのか」と叫び出していた。

 

その時の声は自分のものでない感じだった。イエス様が普段持っていた心を語ったようだった。その時、無線機を通して「オーバー」という声のところからは息の声も聞こえなかった。しかし向こう側では続けて聞いていた。心がすっきりした。

 

その時語った言葉は、私が普段持っていて募っていた考えを叫んだものであった。いつもそういう話ばかりだった。銃を幾つ奪われたかで騒ぎになったりした。人さえ死ななかったなら、いいんじゃないか。それぐらいの銃は幾らでも造ればいいのではないか。こういうことが戦場で軍人が不平不満をもらす要因の一つだ、と私は知っていたために、怒りながら無線機にいろいろ怒鳴って、それから切ってしまった。

 

軍の上部の会議でその話が持ち上がった。
「どんな気が狂った奴がそういう無線を送ったのか」。

 

その時、キム・ヒョンジェ大令本人が私の無線を受けたのだ。
当時、大令はとてもプライドの高い人だった。
戦場で、明日生きるか死ぬかわからない時だからこそ良心を正しくもって生きなければならないのに、指揮官ならばもっと中の方まで入って指揮しながら歩き回るべきだったのに、バンカーの上に腰掛けてこうしなさい、ああしなさい、と指示するばかりだったのだ。タンクの中に入って直接見たりしながら指揮すべきではないか。私はああいう態度が嫌いだった。あちこち回って見てみなければならないのだ。

 

私はいつも、ついて行きながら指揮をする。伝道してみて、一人ずつ全部神経を使ってあげる。全体をそのようにやってきたのだ。そうするからついてくる人たちに力が出るし、その人たちが喜ぶのだ。

 

その出来事があってから15日くらい後に、そのキム・ヒョンジェ大令自ら作戦に直接参加したという話を聞いた。その時どれほど嬉しかったかわからない。その後からは指揮官がどんどん入って行き、作戦に失敗するということは余りなかった。イエス様は、「真の牧者たちは羊たちの前に行き、もし死ぬことがあればまず先に死んで、国立墓地に行くべきだ」、とおっしゃた。こういう立場でいつも指導者たちがやるべき事が多い、と私は考えた。

 

捜索作戦でラジオ7台を捕獲

命の恵み<鄭明析牧師先生とベトナム戦争>

-鄭明析牧師ベトナム参戦記(840624)-
捜索作戦に出ることがあったが、どうしてか洞窟の中に深く入りたくなった。その当時自分の命を惜しむ人がむしろもっと早く死ぬのを見て、「どうやっても死ぬ時は死ぬのだから、大胆に動こう」という覚悟ができた。その時はどこからそのような大胆さが出てきたのかわからないが、私は他の人よりもっと大胆で凄かったし、人よりもあちこちを探すようになった。岩の裏の方に隠れて、自分の命を余りに惜しんだために、突然現れた敵の前で体を大きな剣で刺されて亡くなったメンバーもいた。

その時深いところまで入ってみたら、性能がよく、全く異常がないラジオが7台あるのを見つけ、メンバーに1台ずつ分け与えた。本来、敵からの捕獲品は報告することになっていたが、みんなはただ喜んでニコニコしていただけであった。作戦が終わった後にうちのメンバーがニコニコしているのを見て、小隊長が「この気が狂った奴、何を隠してあんなに喜んでいるんだろうか」と不思議に思った。その時は比較にならないくらいに見張りをうまくやったが、その理由は外に出るとラジオが聞けたからだ。

しかし私は、後になればなるほど聖書の御言葉がどんどん思い出されて、気持ちがすっきりしないでいた。アカンが外套1着と200シケルと目方50シケルの金ののべ棒一本が欲しくて隠しておいて、神様から呪われ、作戦が失敗してしまったというヨシュア記7章21節の話がずっと頭から離れなかった。それでアカンのような出来事が起こる前に報告しようと思い、うちのメンバーにその話をしたら、メンバーたちは私に向かって、「イエス様を度が過ぎるくらいに信じている」とからかって、「自分たちはそのようにはできない」と言った。

しかし私は、「自分一人だけでも報告するんだ」と小隊長の所を夜遅く訪ね、寝ていた彼を起こした。私が夜中突然現れたから小隊長は「もしかしたら自分に恨みを持って来たんじゃないか」と思って素早く飛びおきて座った。そこで私は、訪ねてきたのは他の理由ではなく、ラジオを見つけたことなど、これまでの事情を話すためだ、と話し出した。

私の話を全部聞いた小隊長は、「良心が生きている」と語り、「余り心配しないで。奪ったものだから各分隊に1つずつ、小隊本部に1つ、そして鄭、あなたが1台持っていればいいではないか」ということになった。それでメンバーたちからラジオを没収したことがあった。

私が持っていたラジオは、軍隊から先に出ていくキムという人があまりにも欲しがったので、16ドルするラジオだったが、「イエス様の御名によって6ドル負けて、10ドルにしてあげる」と話して売ってあげた。当時1ドルは270ウォンだったから10ドルつまり2700ウォンをもらったと思う。隊の仲間がラジオを売ったという話を聞いて「ビールを買え」と騒いだので、「イエス様を信じる人はケチだ」と言われるのが嫌で、ビールを2ドル分以上買ってあげた。故郷にいる母にもお金を送ろうと思ったが、結局送ることができずに終わってしまった

敵を愛しなさい:敵が妹ヨンジャにかわった

ベトナム戦争の時、こんなこともあった。何百回と作戦をしているうちに私も敵の銃の前に単独でぶつかることがあった。3、4mの間隔をおいて、私が先に敵を撃てば敵が死に、敵が私を撃てば私の方が先に死ぬというハラハラする瞬間があった。

その時、お互いが殺そうとしたなら、2人とも死んだはずだった。天から「愛してあげなさい、良くしてあげなさい」という声が聞こえたから生きるようになっただけで、自分の考えだけでは到底生きることができなかった。だから神様の御言葉は命であり、霊魂を左右するものだ。

しかし、その時天の声の通りにしたいと思ってもできるものではなかった。なぜならお互いに言葉が通じないために、「私があなたを許してあげる」と言っても聞き取れなかったはずだったし、体を少しでも動かそうものなら引金を引くところだったからである。それは私の場合も同じだったので、お互いに、乾燥した明太のように硬く立って考えるだけの世界だった。

そしてお互いが自分自身は死なずに相手だけを死なせようとした。その時、また声が聞こえた、その声は「行って愛してあげて二人とも生きるようにしなさい」と言った。しかしその声を信じることができなかった。人間の方法としては大変だけれども天から聞こえてきた声だったし、また動きさえすれば撃たれる恐れがあったので動くこともできなかった。

しかしその時はどうやっても死ぬ状況であった。それで「神様の御言葉を実践して死のう」と思ってちょっとだけ歩いていくことを決心した。すると決心してから前に立っている敵が自分の妹に変わって見えた。そこで「あなたがどうしてここまで捕まってきてこんなに苦労しているのか」と言いながら走っていき、その人に抱きついて暫く泣きながら異言でお祈りまでした。その祈りの内容は、「あなたと私が戦って互いに殺す必要があるのか。あなたが私に何をしたわけでもないし、また私があなたにそうしなければいけない理由もないのに」というものだった。
それで結局互いに生きるようになった。その人もそんな声を聞いのたかも知れないが、私が近づいて行った時にはその人も同じ様な心を持っていた。神様は私一人だけに悟らせて下さっただけではなく、相手にまで悟らせて下さったのだ。だから「行きなさい」と言われたときには相手も悟らせて下さったことを知って動かなければならない。結局相手を許すことによって自分も生き、彼も生きるようになった。

 

青い空、白い雲さえもすべてがなじまない異国の地だ

「頭を後ろにのけぞって天を仰いでいた。
だれもいない青い青空には、白い雲だけが静かに浮かんでいる。
青い空、白い雲さえもすべてがなじまない異国の地だ。

 

熱帯の燃える太陽がやはり異国の地ベトナムだ、ということを否定できないようにしている。
爆弾の音が聞こえてきて、耳が裂かれるほど聞こえてくる。

 

銃の音に心はドキッとして、髪の毛は天に引っ張られるように立っていた。」

鄭明析牧師がベトナム戦争に参戦したときの話より

 

トゥイホア海岸 歩哨での出来事ー気付かれる前に殺さなければ、自分が殺される

祈りはサタンも止められません。敵をなくし、敵を退かせます。

 

先生もベトナム戦争の時、独哨(1人で歩哨に立つこと)している時がありました。
中隊のみんなは戦闘作戦に出かけ、7、8人だけが残って部隊を守っていたある日の夜でした。
東西南北4箇所を8人で守らなければなりませんでした。
1つの詰所に2人が交代で、最初の人は夕方の6時から12時まで歩哨に立ち、次の人は夜の12時から次の朝の6時まで歩哨に立ちました。

先生は夜の12時から翌朝の6時まで歩哨に立つことになりました。
警戒をし、歩哨に立っていました。
トゥイホア海岸側の砂浜の横の詰所で歩哨に立っていました。

 

12時過ぎ、明け方の1時頃、80あまりの敵が現れて、部隊側に向かってきていました。
部隊に兵力がいないという情報を敵は知っていて攻めてきていました。
敵は部隊を囲っている鉄条網によじ上っていました。

 

本部に合図を送りましたが、担当者が居眠りをして受け取れませんでした。
はらはら、やきもきしました。

敵達は機関銃で武装し、鉄条網の隣、私の立っている詰所から5メートル離れたところにみんな集まって、月明かりの下(もと)で私が立っている詰所を眺めていました。

私は壁にくっついて、やきもきして祈っていました。敵の武器と武装した格好を見ると、みんな特殊部隊でした。

 

鉄条網の下に設置したクレモア4個を爆発させれば数十人は殺せますが、それでも半分以上の兵力が残るので、結局1人で敵達と戦わなければならないし、
隣の詰所の人は居眠りをして来れないだろうから、一瞬にして死に直面することになりました。

 

その時、「私は彼らの命を助けるから私も神様が助けて下さい」と、決心して祈り続けました。

特別な答えもありませんでしたが、目から熱い涙がとめどなく流れていきました。

 

「私は彼らを生かすために、彼らを殺せる武器があってもスイッチを押さないのに、敵たちは鉄条網を越えて来ようとしています」と、最後まで祈り続けました。

 

暫くして目を開けて見ると、十数人だけが残って、みんな浜辺の道から戻って行きました。

残っている十数人もじゃれあって平和に戻って行きました。

 

祈ることでこのようになりました。命を大切に思わず、武器にばかり頼ってクレモアを爆発させ、手榴弾を爆発させたなら、3、40人は現場で死に、残りの兵士たちが私の居場所を確認して、私も殺したでしょう。

祈ることで敵も助かり、私も助かりました。

神様はそのような極限の状況で祈っても答えがありませんでした。

その当時は神様に言われても従う状況ではありませんでした。

銃を撃ち、手榴弾を投げつけ、今クレモアを爆発させなさいと言われてもできなかっただろうし、我慢しなさいと言われても我慢できないほどの切羽詰った状況でした。

私の方から判断して命を愛し、祈るようになさったのです。
その日の夜、天の天軍たちが私の周りを囲んでいるのが熱く感じられ、胸がじんとしました。

 

イスラエルのエルサレムをスリヤの軍隊が囲んだ時、エリシャの使いゲハジは心配しました。
その時エリシャが彼の目を開いて、天から送った軍隊を見せ、スリヤの軍隊より神様がつかわした軍隊の方がもっと多くないのかと言いました。

祈って、彼の目が盲人になるようにし、自分の民族のところに戻ってから再び目が見えるようにした、
列王記下6章14~20節の状況が、強く頭に浮かんで来て、その日の夜も神様が送った天軍たちが来ていたのだと悟るようにして下さいました。

祈ることでしるしが起こりました。
話を聞くだけでも鳥肌が立ち、身の毛がよだつ死の谷に直面した時、神様は死ぬ直前に恵みを施して助けて下さったのです。

だからみんな落胆せずに祈らなければなりません。

2008-07-13 主日の御言葉
テサロニケ人への第一の手紙 5章12節から5章22節,
主題:このように生きなさい
より抜粋

私を創造し
彼らを創造なさった
存在者よ

彼らの心
我が心に感動を与え
みな死なないで
生きるようにしてください

私を創造なさった
全能者に祈ります
聖霊に感動を受け
わが兄弟のように思い
わが恋人のように思ったので

敵も助かり
私も助かった

あの世の使者たち、来るときには
大言壮語し、悪霊のように
しかめっ面で来たが、

帰る時は人間天使のように
ゆっくりと
月夜の浜辺を歩いて帰り
このように話した。

彼は天寿通りに生きるしかない
天愛の身だ。

あの世の使者たちも
悟って帰る。

互いにじゃれあい、抱きしめて
帰るその姿
戦場では見ることのできない
平和な姿だ

私が今夜
彼らを殺して
英雄になったって
何になるだろう

この世で褒められ
英雄になれても

この世の生活が終わってから
天の国に帰って
どんな顔をして
兄弟を殺したのに
わが父に会えるだろうか

よくやった
命を懸けて我慢したことが・・・

私も助かり敵も助かって
私が一生生きる間
会う人会う人に
我が人生の話をするたびに

この戦争の話をしよう

 

命の恵みー鄭明析牧師の詩

私が
命の恵みを
施したので
私に
命の恵みを
施した
命を大事に思ったから私を創造なさった方
神様がこのことを知って
私に
命の恵みを
施すように
私に先に
命の恵みを
施させた

 

その日の夜、
神様が私の命を
守られた
死のあの世の使い、
分隊長から
私の命を
守られた

その人が
今、生きているのか、
川の向こうの村に
移り住んでいるのか、
探しても見つけられない

鄭明析牧師の詩

 

もはや私達は命の救いの恵みを受けたから、居眠りせず、自分の命を害しようとする人達から命を懸けて命を守らなければなりません。人は物質の恵みを施したら物質の恵みを受けるようになり、愛の恵みを施したら愛の恵みを受けるようになります。命の恵みは命でもって報いることができます。

ベトナムで会ったその戦友に再び会いたいけれども、名前を知らなくて会うことが出来なくなりました。しかし、ベトナム戦争に関する本を書くときにこの人が私に施してくれた恵みに感謝して、その人と一緒に撮った写真を入れました。

私たちは時代の恵みを受けたから、命の救いを得たから、命を救うことで返していかなければなりません。

2003年11月30日 摂理主日礼拝
「恵みの生活」 鄭明析牧師

 

 

ポンソク牧師によるベトナム戦争の話

先生(鄭明析牧師)がおっしゃいました。

「ベトナムに行って、私が戦ったところをちょっと行って来てみなさい」とおっしゃったので、行きました。
戦争したところに行って、見て、もう本当にびっくりしました。

 

本当に戦争は、ここは本当に恐ろしいところだ。
行って見たらジャングルでした。
蚊が、沼地に行くと蚊が蜂の群れのように飛んでいます。
そういうところで戦争をしたたのです。

 

ベトナム戦争に行ってきた人が周りにいます。
いとこも行ったし、村の人も行ってきましたが、だいたい、変になります。
戦争の後遺症があります。

 

昔の映画ですが、「ランボー」とかいう映画もありましたが、戦争の後遺症を患っている人たちのことを描いた映画です。社会に適応できず、暗いところで団結して、問題を解決してあげて、人を殺す。そういう仕事をする人もいるのです。

 

他の人たちは1年行ってきたけれども、先生は3年間、軍隊生活のほとんどをベトナム戦争で過ごしました。一番熾烈なところでした。

 

枯葉剤というのがあります。草を枯らせるものです。草が多いからジャングルが多いから敵が見えないでしょう。だから、米軍が飛行機で撒きました。それで、そこで戦争していた人たちはみんな、後遺症でほとんどが麻痺したり、治せない病気になったりしている人たちがたくさんいます。

 

いとこも自殺しました。自殺した人が多いんです。
戦争に行って来て、ある人は離婚したり。
正常な暮らしができないことがあります。

 

私が知っている教授は郵送部だったんです。
人を、物や人、大きな道具を。峠を越えていた。それで、ベトコンを3人撃ち殺しました。
その人はその戦場で3人殺すところだけを見ただけです。

しかし、教授もやめて、離婚しました。

 

夜になると、夢にその人たちが出てきて首を絞めるそうです。
叫んでベッドから落ちるのです。
だから、もう奥さんが一緒に暮らせないと言って離婚されました。

 

ベトナムに来てうろうろして、私に会って話をしました。
それで先生の話をしたら、「それは嘘だ」と言って、「信じられない」と言いました。
「あなたの兄も精神的におかしくなっているはずだ。病気になっているはずだ」。
しかし、先生は精神が何ともなかったのです。

 

先生は神様のおっしゃる通りに聞き従いました。
いろんなことが、ベトナム戦争の時、戦場でいろんなことがありました。

 

戦争に行くと勝者がすべてをものにします。
その昔の戦争史とかを見ていて、女の人もお金も金、銀、財宝、全部奪っていくでしょう。
それで戦場で酒、女、望んだらいくらでも手に入ります。

 

しかし、先生はそこでも命を愛して命を生かすために命を懸けた方です。
敵を生かすために。それも想像もできないほど難しいことですが、他の人たちが戦場に行って女を取ったりするとき、先生はそれをやめさせて、信仰の純潔を守ったのです。それは奇跡的なことです。

 

だから私は、先生の生き方を見て、奇跡のような生を生きてこられた方だと言います。
それがどれほど大変なことなのか。

 

皆さんが本当に理解しにくいことですが、皆さん、戦争の映画などを見てください。
戦場で、人を殺すということを楽しむ人たちがいます。

私は本当に驚きました。
ベトナム戦争に行ってきた人は、みんな先生のような人だと思ったけれども、調べてみたらほとんどの人が精神的に疾患を患っていました。

 

階級は高い人でも低い人でも構わない。今、アメリカで一番問題になっていることは、アフガニスタンとか戦争、戦場に行ってきた人たち、その問題が深刻なのです。

 

敵の苦しみー数百回の埋伏作戦(待ち伏せ)と戦闘

鄭明析牧師は数百回の埋伏作戦(待ち伏せ)と戦闘をしました。

トゥイホア海岸のチャイ山と呼ばれる山のふもとに、チョンミョンソク牧師の小隊が埋伏作戦に出かけた時のことです。

午後4時頃、日が沈みかけたとき、牧師の小隊の前に17名のベトコンがチャイ山から下りてきて食糧を集めるために村に向かって歩いていました。彼らは、牧師が埋伏しているところにむかって、警戒しながら歩いてきていました。みんな20代の若者達でした。彼らが25m先まで来たら、牧師の小隊は一斉射撃することにして、銃口を向けて伏せていました。

 

人を殺すために40度近いベトナムの地獄のようなカンカン照りのもとにいなければなりませんでした。いくら戦場とは言っても、敵を殺す人も苦しく、殺されそうになっている敵たちも苦しみを受けている姿を見て残念でなりませんでした。

チョンミョンソク牧師は信仰人として敵を愛しなさいという聖句を脳裏から消すことはできませんでした。

敵とは言っても、彼らを殺したら、彼らの親や妻子、恋人たちが本当に惨めになるだろうと思ったのです。ちょうど牧師が祖国においてきた牧師の親兄弟と重なって辛かったのです。

「残してきた恋人たちは首を長くして、ヤキモキしながら一日を千年のように待ち続け、神様に祈り、イエス様に祈り、釈迦や様々な神々に祈っているだろうに・・・。あの人達も自分の命に愛着を持って、血なまぐさいこの戦場で生きて帰りたくて私と同じくもがいているだろうに・・・」

牧師は、彼らを殺すとなると彼らの中に自分が入っていたらどうだろうかと立場を変えて考えてみたとき、彼らを殺してはいけないという思いが、波のように牧師の心に押し寄せてきたといいます。そしていくら戦場とはいっても、神様を信じ、イエス様を信じて、人に害を与えないで敵を愛すると幼い時から祈り、約束して今まで生きてきたチョンミョンソク牧師としては彼らを殺すということは、あまりにも良心に呵責を感じることだったのです。

 

戦争の惨禍の中でも平和を呼び求めるとは、どのような精神なのでしょうか。
戦争の中で常軌を失わず、敵味方問わずの命の大切さ、またその命の家族や恋人のことまで考えるとは。

 

最後にーRIO

いつから私達は戦うようになったのでしょうか。昔から戦争は絶えません。いろんな理由があるにせよ、全く絶えたという歴史はありません。

世界の戦争1000年の歴史

1945年から1998年までの核爆発

以前、ISIS(イスラム国)がイラク北部キルクークで敵対するクルド人部隊の兵士を檻に入れて街頭で引き回したとNEWSで繰り返し流されていました。背筋が凍りつくしかありませんでした。クルド人兵士達が籠の中に入れられて、ISISの人々の中を通過していくのです。もちろんただの通過ではありません。見世物にされており、批判の嵐の中をパレードする様子でした。

 

キルクークは大規模な油田地帯でISISとクルド人部隊が激しい争奪戦を行っています。一方、クルド人部隊がシリア北部のISIS拠点を制圧したとのNEWSも入ってきています。

 

また、去年は今年の漢字が<北>と最多投票を獲得したほど、北朝鮮のミサイルが連日、NEWSで流れました。

このような状況の中、日本人の誰もが平和について今一度、考えていることではないでしょうか。

 

命の恵み<鄭明析牧師先生とベトナム戦争>
私が昔から夢見ていたことの一つに「世界平和」があります。摂理に来てからも平和についてはことあるごとに御言葉で出ていました。

 

鄭明析牧師自身が何より平和を愛する方でした。それはベトナム戦争に行かれても変わることはありませんでした。ベトナム戦争に、ただ行ったんじゃなくて軍隊の兵士として行きました。
ベトナム戦争に行って、敵、つまり捕虜を捕まえたけれども鄭明析牧師には「敵がいなかった」といいます。
どういうことでしょうか。

 

人が見たらお互いに喧嘩したり、お互いに敵になったりするけれども、神様から見たら敵ではありません。摂理のバイブルスタディ 無知の中の相克世界でもそのような話が出てきますね。

 

銃を持って敵を狙う時に、その敵の親たちがはっきり見えたといいます。「幻を見たのではなくて、その親がいるんだということ、親が待っているんだということを心に感じられないだろうか。」ベトナムで戦う敵たちと接してみても、彼らにも親がいるから、生きて帰って来ることを敵の親も待っています。そういう状況で鄭明析牧師が銃を撃ってしまったら終わりです。

 

敵と「お互い生き残って帰ろう、お互いに殺してしまったらどうして平和がなせるだろうか」と話したのです。
人を殺した時に平和が訪れるんだというこの世の考えと天の人の考えはまるっきり違います。そういう風な世界を神様が真に望むなら、人間に戦わせる前に隕石の一つでも落として終わらせたことでしょう。でも神様は平和を望まれる神様です。
生かしてあげるときに平和が訪れると。

 

鄭明析牧師は、神様から人生を、生き方を教えてもらいました。

 

神様の考えに従わなければ、どうして神様を愛する人だと言えるでしょうか。平和を愛したイエス様のように生きなければ、どうして信仰者と言えるでしょうか。イエス様と関係ない人ならイエス様のようには生きないでしょう。でもイエス様が何度も聖書の中で平和について話されていました。

その平和の考えを鄭明析牧師は、一番悲惨な場所である戦争の場所で実践されたのです。

ベトナム戦争に一度行ったときに、ベトナム人捕虜たちを見ながら言葉が通じないからその捕虜たちの状況が分かりませんでした。捕虜の家には、親も子供も妻もいるだろうし、そういうのを考えたらあまりにも可哀そうになったと言いました。だから二度目に行く時には「通訳になってベトナム人たちの話しを聞いて伝えられるようにしよう」そのように決心して行かれたのです。

一度行ったから、二度目にいくときにはベトナム戦争の恐ろしさが分かっていました。それでも行かれたのです。

結局、二度目に行かれた時には他の人が通訳官にはなっていましたが、捕虜たちの心を慰めてあげることには変わりはありませんでした。
あるときは、銃を持っている敵のところに近づいて、ほんとうに自分の兄弟に会ったように撫でてあげて「どうして私達がお互いに銃を撃ったり戦わないといけないのか」と言いながら泣いたりしたと言います。そのベトナム人の胸には十字架がありました。同じ神様を信じている私達だと互いに泣きあったのです。戦場でそのような光景がいったいどこにあるのでしょうか。

 

今もなお、鄭明析牧師は言います。
「私は誰をも憎まない」
「私には敵と思うような人はいない」
ベトナム戦争の戦場でも、韓国に戻ってからも、世界に福音を述べ伝えに行ってからもいつもこのように話されていました。

戦争が始まる際、大元は人の心から始まります。憎む心、争う心。
愛する心があれば、神様から見たら敵でないということが分かれば、争う前に考えることでしょう。この心が正しいのか。

心で誰をも憎まなかったその精神、私も普段の生活の中で実践していきたいと思うのです。
その心が最終的には必ず平和に繋がると確信しています。
私は今日も世界平和の為に祈ります。

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ベトナムで撃った銃の話

よく戦争に行った兵士たちは帰国後、精神の病を患う人が大半だというが、正確に言えばそれは戦場にいる時から起こっていることもあると知りました。
私は2005年、ベトナムに行きました。
ベトナム戦争資料館には残酷な死に方をした方々の写真がたくさんありました。
また、日本でいえば防空壕みたいな戦争跡地にも行きました。

そこで、「銃を撃つ」体験を私はしました。

たった一発だけ、撃ったのです。
そして一緒に同行していた10名程の人達も続けて撃ちました。
正直、私は正気でいることができませんでした。
ただ茫然と音を聞くしかなかったのです。

一発でも、銃声を聞くのは嫌でした。
ましてや自分が撃った時の衝撃は今でも忘れられません。
たった一発なのに。

思い出しただけで気が狂いそうです。
ただ一発撃っただけなのに。
恐ろしいほどの恐怖心です。

 

だから。
銃声の中で鄭明析牧師が気が狂わなかったこと、最後まで神様を呼び続け、その声に従ったこと。。
真実に凄いと思ったのです。

 

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