自分の目の塵を取ろう

自分の目の塵を取ろう2
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人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁(はり)があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目から塵(ちり)を取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
新約聖書 マタイによる福音書7章1-5節

イエス様のこの話を聴いていた対象はイスラエルの人たちでした。その中でも宗教人たちが聞いていたし、宗教の批判者たちが聞いていました。指導者たちも聞いていました。イエス様は説教の中で「自分が裁かれないためには人も裁くな」と言いました。

 

イエス様はおっしゃいました。「神様がおっしゃった通りに伝える。自分の目にある梁のことを悟れないで、人の目の塵を取ろうとする行動だ」と、批判している人たちのことを一言で指摘しました。イエス様は梁の譬えを使いました。家の中で最も大きい木のことです。それくらい大きな矛盾があるということです。

 

自分の矛盾を取り除くということは非常に難しいことです。それも小さい物でもなく大きな物を抜くというのは非常に難しいことです。小さい癖を直すことも難しいから、大きい癖を直すということはたやすいことではありません。一生かけてもできないと言います。

 

今日の説教は梁を抜きなさいということではなく、人の目にある梁を見て自分の目の中にある塵を取りなさいという話です。人の目の中にある梁を見て、自分の目の中にある塵を取らなければならないということです。人がそれを抜いてくれるまで待つことはありません。だから人の目の中にある梁を見て、自分の目の中にある塵を取らなければなりません。私たちはもうその梁は抜きました。大きい物は取り除きましたが、塵だけが残っているということです。人が塵を抜いてくれるまで待つことはありません。だから人の目の中にある梁を見て、自分の目の中にある塵を取らなければなりません。

 

小さいと言ってもその塵を取らなければなりません。小さくても塵が入っているからよく見えないし困るんです。小さいけれども、それがあることで見ることが不自由です。だから必ず取らなければなりません。

 

ある人は話題の中にところどころ人の悪口を言います。話をしているうちに聞き苦しくなる時があります。私は人の悪口をしている人といると、聞きたくないので、何とか話題を変えたり、その場から抜けて行こうとします。私は悪口を言うことを最も嫌う性格です。

 

信仰人たちは必ず心の中に雑草はないのかと確認をして、その雑草の塵を取らなければなりません。必ず抜かなければなりません。抜かなかったら自分たちの損です。心の畑の雑草を抜いてください。それがあると肥料をたくさん与えても伸びないんです。雑草を抜いてから御言葉の肥料を与えなければなりません。即、私たちはそういうものを抜いてなくさなければなりません。

 

「悟ることはよくできるが、直さない」と主が強力におっしゃいました。

 

ある人は話もうまいし、主張もよくできるし、教えることもよく教えられますが、自分の言葉で自分を見ることができません。自分の言葉で自分を見ることのできる人にならなければなりません。昔からの学者、哲学者、悟り人という人たちは人を教えるために現れた人です。しかし最後には自分を教えることになりました。つまり哲人たちは最初は人を教えるために研究をしたのです。しかし最後には自分のことを見出すようになったということです。だから最後には自分を教えているうちに時間が足りない中で名残惜しさをもって去って行ったと、哲人たちの世界についてイエス様がおっしゃいました。

 

だからまず自分を教えながら人を教えるとき、正しく教えることができます。最初は「私が学んで誰かに教えてあげなきゃ。先生にならなきゃ。政治家にならなきゃ」と思って学びますが、勉強をしているうちに自分を教えているということに気づきます。だから人を教えることではなく、自分を教えることが最先端のことだということを、そして自分を教えることが最も大きいことだと最後になって悟ったということです。

 

私たちも人を教えるためにこの御言葉を学んだのではなく、自分を教え、自分を救うために学んだのです。最後には自分を教えることが大きいです。どれだけ早くから自分を教えるのか、またどれだけ実践するのかによってすべてが決まります。自分のことに先に手をつけなければならないです。

人の目の中の梁を指摘すべきではなく、そういう時間があれば自分の中にはそれの千万分の一に該当するような塵はないのかと考え、その塵を必ず取りなさいということです。

 

1985年9月1日(日)摂理主日礼拝の御言葉<自分の目の塵を取ろう>より 説教:鄭明析牧師

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