ブログを書き始めたのが2013年秋。約4年半たった。
2014年6月からは毎日書いている。約3年8カ月たった。
私は元々、何かを続けることが苦手。
こうやってブログ書いてると、「日記書いてたんですか」と言われるけれど
全くそんなことはなく、ただの三日坊主。
以前、千日日記というのを買ったけれど
やっぱり三日で終わった。
そんな私がなぜかブログを続けて4年半となった。
神様を愛する中で、ブログを書いたという事実が残った。
このブログを書きながら毎日思う。
誰かの涙に届いているのか。
誰かの心に届いているのか。
誰かの癒し、なぐさめになっているのか。
そう思いながら書く。
世界中の多くの人の中で、たった一人でいい。
神様の心に触れるキッカケに、このブログがなるなら。
もし、たった一人もいなかったとしても
神様が「よくやった」と言ってくださればそれが全て。
神様の心がスッキリ晴れて、嬉しい笑顔になってくださったらそれが全て。
足りないところもたくさんあるけれども
神様に喜んでほしい。たった一人の誰かに届いてほしい。
そう思って書いてきた。
大きなことは出来ていない。
どこまで神様が喜んでくださったかは分からない。
それでも、私がブログを書く毎日の全てに
神様が共にしたことだけは間違いない。
毎日書くなんて、本当に私には出来ない。
でも地道に、パソコンの前に、スマホの前に
毎日い続けた。
私がやったことじゃない。
神様が助けてくださったからできたこと。
そして。
摂理についてたくさん書いたけれど。
そのうちの一つ、鄭明析牧師についても書いた。
私が実際に見た鄭明析牧師の姿と
報道で流れてくる姿とが
あまりにも違って
まるで別人にしか思えなかった。
摂理の人達についても
私がよく知っている姿とそうでないことが連発して流れ、噂となった。
ある一部分はあってるのかもしれない。
でも到底、私が直接見て接した姿とは全く違った。
関連:摂理の人達のコンテンツ
私が見たその姿を伝えたくて
書いていた。
私は鄭明析牧師がどのような使命をもっていようが
尊敬する対象に何も変わらないし
その辺にいる、どこにでもいる おじさんのように過ごされていとしても
私はきっと尊敬していたと思う。
報道でいくら流れようが、私の心は何も変わらなかった。
いくら誰が悪く言おうが、私の心は変わらなかった。
自分が見たものを信じていた。
そして。
悪くいわれるその一方で
私がもっと発信しなければと思った。
ただ貝のようにじっとしていていいだろうか。
ただ黙って耐えるべきだろうか。
そういうときもあるかもしれないが
報道がいくら誤解されるようなことを伝えているんだとしても
その前に
誤解されないように私が発信していたのか?
真実を、私がしっかりと発信していたのか?
それは今でも心にずっと留めている。
マタイによる福音書7章3-5節
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
そうだ、発信していなかった過去の私は、ただの偽善者なのだ。
マタイによる福音書7章12節
だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
人々に、メディアに、真実を分かってほしい。
それならばまず自分が、真実を伝えなければいけないではないか。
そうもしないで、ただメディアが悪い、報道が悪いといったらなんてかっこ悪いんだろう。
と今は思う。
それもたくさん、神様が人々を通して、聖書を通して、御言葉を通して教えてくださったことだ。
黙っていれば家族間でさえ、何を考えてるか分かることはない。
イエス様は耐えた時もたくさんあったけれども
しっかりと話した。
ただ、仙人のように微笑みを絶やさず、座ってるだけの人ではなかった。
マタイによる福音書7章 21節
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
イエス様はしっかりと行った方だ。話された方だ。
マタイによる福音書7章26-27節
また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
マタイによる福音書12章37節
あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。
マタイによる福音書18章 35節
あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。
イエス様は、自分がどう思われるかを省みず、何より神様の言葉を伝え、そして人々を愛して
「そのままではいけない」と話された。
崖から落ちようとしている子供を全力で助ける親のように。
2000年前、伝える手段も方法も限られる中でも
イエス様は最大限、述べ伝えた。その期間、3年半。
私はその期間を超えてブログを書いている。
イエス様のように、どこまでハッキリと伝えられただろうか。
どこまで神様の願いを成し遂げられただろうか。
終わりなきこの道と問いは、神様にしか答えられないんだろう。
でも、本当に。
もしこのブログを読んでくださっている方が
何か助けになったとか、何か役に立ったとか、力を受けたとか
もし思ってくださる方がいるならば、私は心からハッキリと言う。
「私ではありません。全て神様がされたことです。」
マタイによる福音書10章20節
語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。
ローマ人への手紙9章 15-16節
神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。
ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。
最初から読んでくださってる皆さん、途中から読んでくださった皆さん、最近読んでくださった皆さん。
本当に感謝しています。
摂理内外の反応に、心から感謝しています。
今後ともよろしくおねがいします。