今日は御言葉をどのように体験、実践してきたのか、感じたのかを書いてみたいと思います。
<2019年11月28日木曜日明け方、主の御言葉>
走りながら<問題>を解決しなければならない。
解決しようとすると、そのときは止まらないといけないですよね。
止まったら走り出すのが大変。ホノルルマラソンを走った時、30キロ過ぎたあたりでランナーがたくさん止まっていました。一度止まった人がもう一度動き出すのは相当な時間が必要。
走りながら、つまりやりながらだと問題を解決しつつ進められるし、解決したか確認しながら処理できますよね。
国単位でも「日本の問題をすべて解決してから進めよう」としたら、1000年たっても日本は何もできない国になりそうです。
<問題>があれば、主に告げなさい。
私は主に告げて、どれだけ救われたことでしょう。
人に言えない、言いづらいことでもたくさん告げました。
単なる慰めに終わらないのが本当に良いです。
主に告げる、本音を告げると必ず答えが来ます。
本音じゃないとこれは来ないんですよね。
<切実な祈り>だ。そうしてこそ<問題>が解決する。
切実に祈るときは時間は関係なく。少しの時間でも、多くの時間でも、どれだけ切実かで解決が左右する。
切実に祈った時ほど、そもそも問題が解決したのかどうかもよくわかるようになりました。
自分が間違ったら、<問題>が起こる。
間違って終わりじゃないんですよね。問題が起こります。
どうでもいいときは間違ってもいいときもあるかもしれない。
だけど切実なとき、絶対に失敗してはいけない時があります。
それは命と接するとき。
保育士の仕事で間違うと、子供が死んじゃうのです。
体が死ぬこともあれば、心が死ぬこともある。
絶対に間違ってはいけないところというのがあるのです。
<問題>が積もらないように、その日その日処理しなさい。
問題から逃げると、問題はそのままで積みあがったまま。
それがどこかに行ってしまうことはない。
積もっていくと、だんだん嫌になって自暴自棄になったりもする。
私はそうでした( ;∀;)
その日その日、ちょっとずつやっていけば誰にも追いつけないくらいのことができます。
<問題>も「時」になってこそ解ける。
いつ解決するか?それは誰にも分からないことがありますよね。
私は人との関係性が悪くなった時、時が解決してくれたこともありました( ;∀;)
お祈りはして、やるべきことはやって、あとは神様に委ねるのが良いです。
一番良い時に、一番解決できるようにしてくださるから。
ぶつかってみてはじめて「問題の答え」を得る。
保育士が子供と接することなく、その子の問題を把握し、さらに答えを得るのは非常に厳しいです。
窓の外から保育は出来ないんです。
ある2歳児が、お友達をすぐに噛んでしまうことがありました。
(2歳だとまだ言葉がちゃんと喋れないので、噛む、引っかくなどで自分の感情をあらわにすることがあります)
毎回、特定の子なんです。
噛んでしまって相手の子に危害を加えることは勿論よくない。
だけど一見、噛んでしまう子だけに視線が集中しがちですが、その子だけ見てると解決しない。
全部の子にぶつかってみて、すなわち接して初めて分かる。
そのときは、その子が噛んでしまう前に、ほぼ必ずイライラさせるような言葉を言われていたことが分かりました。
だから、噛んでしまう子にも諭し、噛まれた子にも諭すことの両方が必要だったんです。
<自分に問題があるということ>を悟らなければならない。
もうこれは、、究極的過ぎますね。
自分に問題があるということは、問題が発生した時は分からない、感情的に受け入れられないことがあります。
しかし、自分に問題があるということを悟れるということは、問題解決に大きな一歩を踏み出したこと。
私もある人に以前、大きく不満をもったんですが、時が過ぎてみたら結局は自分が問題だった。
環境が変わっても、相手が違っても、結局は私は不満を持っていただろうと思ったのです。
実際そうだったから。
それに気づいてからは、逆に気持ちが楽になりましたよ。
誰もが問題がある。互いに対話してはじめて解ける。
対話、絶対必要!
これは自分自身も、そしてニュースを見ていても非常によくわかりますよね。
世界各国、首脳同士が話さなくなったら必ず問題が起こります。
問題が起こってるから話さないのですが、話さないと更に問題が起こります。
世界の歴史を見返しても絶対にそうです。
対話って本当に大きいですよね。
<問題>を解決すれば「それに伴う祝福」を受ける。
なぜ問題が解決されなければならないか?
問題を解決するときには痛みも生じるし、大変なこともたくさんあります。
しかし、それに伴う祝福を受ける。
だから神様は問題を解決しなさいとおっしゃるのですね。
人々を問題まみれにさせたくない神様の愛を深く感じます^-^