聖書にみるイエス・キリストの一生

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2020年2月16日主日の箴言より抜粋
<主題>復活の喜び
<本文>マタイによる福音書28章1~9節、ヨハネの黙示録2章10節

<聖書に出てくるイエス様の一生>を見たら、イエス様は「神様が遣わしたメシヤ」で、最初は一般の人たちのように成長し、「神様の御言葉」を実践して生きたが、時になって神様と聖霊様と御子が「その肉(身体)」を着て御言葉を伝えて、救い人として、従う人々を死亡から命へ復活させてあげた。

新約のとき<イエス様>を通して「命の福音」が伝えられて、<その御言葉を信じて従う人たち>は「しもべ」から抜け出して「神様の子女」として復活した。それによって「旧約歴史4000年間待っていた希望」が成就した。「神様の喜びと愛の歴史」であり、「メシヤの救いの歴史」だった。

<イエス様の御言葉を聞いて新約子女級に復活した人たち>は「旧約の律法の制度」と「先祖の時から伝わってきたさまざまな戒めと煩瑣(はんさ)な法則と行事のくびき」から抜け出した。
その中には燔祭法、安息日の法、割礼の法、旧約に属した行事と服装と食べ物の制限などがあった。イエス様は新約で「このような旧約の数十の法」を廃したので、その法を守らなくても罪ではなかった。

<イエス様とイエス様に従う人たち>は「しもべ」から解き放たれて「新約の子女級の愛」を受けて、新しい時代の救い歴史を広げていった。
しかし<分からない旧約のしもべ級の祭司長と指導者とそこに属した人たち>は「新しい時代のメシヤ」を最大の悪人だと見なして不信し、顔を背け、反対し、悪評を言い、蔑視し、殴り、蹴り、殺そうと追いかけ回した。
それだけではなく「イエス様に従う人たち」のことも憎んで迫害し、計画的に苦痛を与えた。それにも関わらず、<神様と聖霊様と御子>は「福音の御心」を成すためにイエス様を着て続けて行なわれた。

<愚かで高慢なユダヤの宗教人たち>は政治家と官職者たちを動員したし、無知な彼らもユダヤの宗教人たちに従って、イエス様に悪を持って接した。結局イエス様を捕まえて「裁判」にかけ、「罪人」と判定し死刑にした。

ユダヤの宗教人たちは<神様が遣わした人>に「人間として最大の悪行」を犯した。殴り、槍で刺し、鉄の鞭で打ち、十字架にかけて殺した。悪魔とサタンが「悪人たち」を着て、ありとあらゆる残忍な行動をした。

<イエス様>も<従う人たち>もその心情を表現できなくて無念で悲痛な思いをしたが、イエス様は死んでいく中でも、彼らが分からずにやったことを許してくださいと言った。「彼らを生かす御心」を成すためだった。

<神様と聖霊様と御子>は「人々がイエス様に行なったしわざ」を「ご自身に行なう行為」と見なし、すべて「罪」と見なした。<最高に愛する民族>が「神様がなさること」を分からず、「遣わした人」にそのように接したので、その心情はどのようなものだっただろうか。
しかし<神様と聖霊様と御子>は「メシヤ一人の犠牲を通してみんなを生かそうとする考え」で耐え、また耐えた。彼らの無知なしわざを許し、生かそうと決めたので、「生かそうとする目的」をもって我慢なさった。

<全知全能なる神様>は絶対神でいらっしゃるので、「憤り」に勝てる。もしイエス様を十字架につけて殺そうとする現場を見て我慢できなかったならば、瞬間にしてソドムの地のようにお裁きになっただろう。
その時<神様>は、悪人たちが自分の息子を殺そうとしているのを目の前で見ている「大兵力を持っている王の心情のような立場」でいらっしゃった。
歴史的に見たら、<世の中の王たち>はふつうこのような場合我慢できず、直ちに滅ぼし、処罰する。しかし、やはり<全知全能なる神様と聖霊様と御子>は、一度「御心」を定めたら天下を総動員して行なわれる存在者として、「目的」をもって何としても行なわれた。

結局<イエス様>は「この世の罪」を代わりに背負って、十字架につけられて亡くなられた。<イエス様の弟子たち、つまり天の子女たち>は悲しみと苦しみと絶望に陥り、途方に暮れる境遇で挫折した。
そのようにイエス様が亡くなられて3日過ぎ、安息日の次の明け方にマグダラのマリヤと他のマリヤが「イエス様の墓」に行ってみたが、天使が現れて「その方はここにおられず、話されていたとおりに生き返って、あなたたちより先にガリラヤに行かれた」と言った。
その言葉を聞いて恐れと喜びに満ちてガリラヤに行く途中イエス様が現れ、彼らはイエス様を拝み、喜んだ。その後40日間人々は「復活して現れた永遠な存在者、主の霊」を頻繁に見て共にした。

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