摂理の御言葉の中で、聖書の中で、神様は随時おっしゃいます。
神様と共に全てのことを行おう
神様は見えないようでも必ずいつも共にしてくださいました。1人で決めて進むわけではなく、いつも人々の話を聞きながら共にしてくださいました。神様が一人で決めるなら人間に話す必要がありません。独裁の場合はそうじゃないですか?有無を言わさず、命令だけがくる。それは話すとは言いません。あくまで命令です。
神様は聖書の中でたくさん人間たちに繰り返し繰り返し語りかけています。そして人間たちの話を聞いています。神様は「私と共にして一緒に働こう」とおっしゃっています。
神様はいつも変わりません。同じです。でも人間が変わることはあります。だから神様が遠く見えることがあります。人も、人から離れたらその人がどうしているかは具体的には分かりません。その人に最後に出会った時、話した時の記憶のまま、とどめるしかないでしょう。
でも実際に会ってみたら、「あー、そう考えていたんだね。ああ、そういう風に思っていたんだね。」ということがあるでしょう。予測と違うことも多いのではないですか?だから神様から離れたら、神様が実際の神様と違って見えるのは理にかなったことです。
生活の中で共にしよう
大事な人というのは、人生の中で決め手となるイベントの時だけいる人でしょうか?家族がもしそうだったらどうでしょう。
産まれた時、学校の入学式と卒業式、結婚式、お葬式。などだけにいる人が家族と言えますか?一緒にいつも過ごす人。仮に何らかの理由があって側にいないけれども心はいつも側にいる。そういう人が家族ですよね。
神様は特別なイベントの時だけいる神様ではありません。良いときだけいる神様ではありません。大変なとき、辛いときこそ一緒にやろうと言います。
1人の時も神様と共に行おう
鄭明析牧師は摂理の御言葉の中でこうおっしゃいました。
「人生は一人で過ごす時間が多い。一人で神様によく仕えて生きる方法を学ばなければならない。」
鄭明析牧師はその長い人生の中で、一人で神様に仕え、神様を家族として、いえ時には恋人のように大事にしてきました。イベントの時だけではありません。主日礼拝の時だけではありません。常に生活の中で、普段の人生の中で神様を愛して仕えてきました。
今でこそ周りに弟子たちがいますが 一人で動かれることもあるのです。あの摂理月明洞。先生が皆を取り囲む姿しか見たことが無い人がいるかもしれません。でも先生は一人で動かれることも普通にあります。私もそれを見ましたからハッキリ言えます。
「遠くにいても近くにいても、どこの国にいても。1人で考えないで神様と一緒に考えよう。そしたら万事栄える。」
その通り、故郷を離れてソウルに行かれた時も、ベトナム戦争の戦火の中でも、神様をひたすら呼び続けました。どこにいっても神様を考え、人々の為に尽くしました。
「神様と共にやろう、神様と共にしよう、神様に祈りながら行おう」このようにしてきた鄭明析牧師先生です。
神様と共に、そして皆と共に
そして神様と一緒にやることは勿論、私達が一つになったときに印が起こると仰いました。誰のでしょう?神様の印です。つまり私達には起こすことが出来ないことが起きるということです。
「各国が一緒にやれば印が起こるということを忘れないでください。」
摂理の国々は、本当にいろんな国々があります。そもそも韓国と日本が仲良くやってるのも、今の情勢を考えればそれだけで奇跡でしょう。戦争を知らない世代はまだいいかもしれません。戦争を知っている世代、また戦後の直後に産まれた世代がわだかまりが無いと思いますか?全ての人に当てはまらないにしても現実にはあります。でも摂理の人達は仲良くしています。他のアジア諸国は勿論、北米、中南米、オセアニア、ヨーロッパ、アフリカなど地球を覆うほどの国々に摂理のメンバー達がいます。
これらの人達がいつも平和に過ごせるように、和睦で過ごせるようにと鄭明析牧師先生は神様に祈られています。そして私達にもそのように話されます。
祈りと感謝に共にする神様-心配は置いておこう
「感謝はいつも塩のように欠かすことはできません。料理、どんなものにも塩が入らないといけません。そのように感謝はいつも絶え間なくしなければなりません。」
誰に感謝?もちろん第一に神様です。
「恐れることがあっても祈ればいいです。祈りは本当に私達に力を下さいます。祈れば出来るし、難しいことがあっても出来るようになります。祈らなくても神様はしてくださいますが、ただでもらうのと祈ってもらうのとでは違います。」
人々は心配、悩むこと自体が恐怖、不安です。人間の思考は、心配したら心配がずっと続き、感激はずっと続くのです。でも自分の責任以外は神様を絶対的に頼るならば、必ず神様は答えてくださいます。聖書の中心人物達にそのようにされたように。心配は心配することで解決しないのです。
いろんな経緯を経て、たくさん体験をした人が信仰の根を下ろすと言いました。どういうことでしょうか?根をおろすとは、誰がなんと言っても揺れない状態です。はっきりと信じているから。
人々は将来のことを先に分かってやったら死んでしまうそうです。苦痛も苦難も先に分かったら苦痛です。私も自分の人生を振り返った時、自分の身に起こる全てのことを知っていたら果たして生きることが出来たでしょうか?無理だったでしょう。
でもどんなに苦しいことがあっても悲しいことがあっても、最終的にはいつも喜んで生きている人がいます。鄭明析牧師はそのような方でした。悲しみの涙を流されたことが無いわけではありません。でも神様が共にしてくださると絶対的に信じて祈っていた。だから最後は笑うのです。
神様に主に会って変化する人生
鄭明析牧師はこのようにイエス・キリストについて教えてくださいました。
「イエス様は一番下から這い上がってきました。ただ神様と一つになり一体になってやってきました。それが一番大きいことです。」
アーメン。イエス様の家柄を考えたら、本当に一番下から上がってきました。
イエス様が、ただ説教を伝えて終わっていたら人々がついていったでしょうか?ひたすら行いました。ひたすら人を愛しました。このようにイエス様のように生きようと、鄭明析牧師は神様に感謝して栄光を帰して生きてきました。大変そうな人をみたらほおっておけず、お祈りは勿論のこと、服も与え食べ物も食べさせてあげました。帰る家が無ければ、自分の家に連れてきてあげました。会う人会う人に、御言葉を伝えてあげました。帰りの電車賃もなくなって、何十キロの道を歩いて帰ってきたこともありました。
主に会ったら考えも行動も完全に変わります。もちろん良い方に。人は愛する人に会って、何も変わらない人がいますか?
それは愛してるとは言えないでしょう。愛する人に会っても何の感情の変化も無い。それはあり得ないことです。道端ですれ違う人を見る時と、愛する人に会う時。同じですか?違いますよね。必ず変化が起こります。それは主に会っても一緒です。いや、それ以上です。
摂理の御言葉を通して、主に会った人達は生活の変化が起こります。会社も学校も・・・辞めるわけではありません(笑)どこかへ修行に行くわけでもありません。会社も学校も神様の歴史だと思って通いなさいという話があります。
ある大学生は摂理に出会う前、アルコール中毒になるほどお酒に溺れていました。4回も救急車で運ばれたそうです。そんな生活でしたから、勉強もうまくいってなかったそうです。ですが摂理に会ってから、その生活は激変しました。学年トップの成績を毎年とるようになり、最後は表彰されて大学を卒業しました。今はエリート社員として、会社でも社長や上司に一目置かれる存在となっています。
またある人は人生をさまよって、転職を繰り返していました。もちろんスキルアップの為に繰り返す人はいるでしょう。しかしこの方は自分自身というものを求めて繰り返しました。仕事が出来なかったわけではありません。営業成績もトップでしたし、会社に大きく貢献する能力の高い人でした。
それでも「自分」を見つけることはできませんでした。摂理に来て御言葉を聞いてからは、その生活が誰が見ても落ち着くようになり、本来もっていた素質を生かして今は全国を仕事でも、摂理の使命でも飛び回っています。明け方の祈りは絶対に欠かすことの無い方です。
分かりやすい事例で言うとこうですが、これ以外にもたくさんの変化が起こっています。
笑えなかった人が笑えるようになった
困難を主と共に乗り越えられるようになった
「変化しようとしてみた」という変化が起こった
見た目の派手な変化は無くても、心の変化があったらそれも大きなことですよね。共通するのは神様に、主に会って変化したということです。そして神様の為にと思って行う時に本当に一番大きく変化をするのです。
各自に個性があるから、個性通りに栄光を帰しなさいともおっしゃいます。これも摂理の素晴らしいところです。目立つのは牧師さん、牧会者ですが、その牧会者だけ摂理は重んじるのではありません。全ての人達が一人残らず大事だと、鄭明析牧師も話されます。
「人を決して軽んじてはいけない」
「神様が愛する人だから」
りんごがバナナのように栄光を帰すことはできません。オレンジとメロンも違います。どちらが大事とかはなく、皆、大事です。神様は全ての人達を個性通りに作られました。だから個性通りに栄光を帰しなさいとおっしゃられます。
私達は一人で生きているようで、神様が必ず近くにいらっしゃいます。私達のほうからより神様に話しかけ、共にするならどれだけ喜ばれるでしょうか。そしてどれだけ自分の人生が少しずつ変化していくでしょうか。
私も神様に毎日会って、苦しいことや悲しいことがあってもそれを神様に告げ、毎日変化する人生を歩み・・・そのように出来ることに心から感謝します。