<主題>
勤しんで急いで時を迎えたから、一緒に生きて勤しんで行ないなさい
-小さい機会は毎日来るから毎日つかむべきだ。そうしたときに大きい機会もつかむ-
聖句
新約聖書 ローマ人への手紙 12章11節
『熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、』
旧約聖書 箴言 13章4節
『なまけ者の心は、願い求めても、何も得ない、しかし勤め働く者の心は豊かに満たされる。』
旧約聖書 箴言 10章4節
『手を動かすことを怠る者は貧しくなり、勤め働く者の手は富を得る。』
ハレルヤ!
今日は「勤しんで急いで時を迎えたから、一緒に生きて勤しんで行ないなさい」という主題で御言葉を伝えます。この御言葉で勤しんで時代の御心に従って行なうみんなになることを祝福します。
『小さい機会は毎日来るから毎日つかむべきだ。そうしたときに大きい機会もつかむ。』
小さい機会は毎日来ます。すべてつかむべきです。機会をつかむことが生活になり、体質になっていてこそ、大きい機会が来るときもつかむようになります。
もう少しだけ行なえば、小さい問題も大きい問題も解決します。行なってはじめて解決します。神様はすでにすべて行なわれました。前々からやらなければなりません。患難、困難によって期待どおりにならなかったとしても、私たちも落胆せずにやらなければなりません。行なうことだけが答えになります。みなさんはイエス様の生を生きています。落胆したら、助けた神様、聖霊も気分を害します。
生活の中で考えに来る機会は、一瞬浮かんで、瞬間で消え去ります。ある時は何でもないようでも、それによってあとで大きいものがだんだんと来ます。自分が見て、身を持って味わい、そのような目に遭ってはじめて悟ります。だから神様、聖霊様は助けようとして身を持って味わうようにさせます。
勤しんで行なってこそ、たくさん身をもって味わい、悟って、機会が来たときに先にすぐに行なうようになります。先に行なえば先に得ます。御言葉を聞いて早く行なうことです。そうしてこそ早く得ます。
万物も、何かのプレゼントも、ある人にあげようとしているものだけれども、あまりにも目立つようにして置いたら、他の人が形象と形を分かって持っていきます。だから神様はふさわしくしておいて、主人になる人が現れたら、心の目を開いて悟るようにさせ、その人が買い、拾い、取るようにさせます。万物も主人になる人が決まっています。
聖書を読むと、旧時代のとき新しい時代について話した内容があります。新しい時代にその御言葉に該当する主人が来て、自分に該当する御言葉だと分かって主人になって、時代のみんなが行なうようにさせます。
イエス様も旧約の預言者イザヤの文を読んで、その内容がご自身に関することだと分かって「これは私イエスのことを言っている。あなたたちが耳にし、成就した」とおっしゃいました。
新約聖書 ルカによる福音書 4章16~21節
それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。
いつもイエス様は旧約で預言したことがご自身について話したことだと分かって確信なさいました。だから御言葉を伝えるとき旧約の聖句を引用して話されました。旧約でモーセや預言者たちを通して話された預言と約束は、本当にイエス様について話したことでした。
新約聖書 ルカによる福音書 24章27節
こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。
歴史は時があるので、火事になったらそこにいる人が消すように、その時分かる人がしなければなりません。
この時代は新約でイエス様が約束なさったことを神様が成してくださる時です。イエス様が再び来られて聖書とさまざまな全てのことを解いてくださいます。
イザヤ書11章1節以下の御言葉もイエス様が読んで、ご自身に関する御言葉だとすでに分かっていらっしゃいました。
旧約聖書 イザヤ書 11章1~9節
エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。
イエス様はこの御言葉が、神様がご自身に話された言葉だと悟って、主人になられました。しかし律法主義者たちは不信してこの御言葉を成就することができず、従う新しい時代の人たちだけが成就しました。
この時代もそうでした。新約でイエス様が「私が再び来て聖書を解いてあげる。新郎として来て、婚宴をする」とおっしゃいました。
新約聖書 ヨハネの黙示録 19章7節
わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
新約聖書 ヨハネの黙示録 19章15~16節
その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。
新約聖書 ヨハネの黙示録 22章16~17節
わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい。
イエス様はモーセが「私のような人が来る」と言った御言葉もご自身に話したことだと分かって教え、伝えました。
時になればモーセのような人が来ると言いましたが、モーセが話した人は実際はイエス様でした。このことをイエス様ご自身が分かって話されました。
エリヤも再び来ると言って、新しい時代に新しい人、バプテスマのヨハネがエリヤの使命と心情で来ました。来る人は来ると言った人の使命と心情で来ます。新約の時エリヤは霊だけが来て、肉はバプテスマのヨハネでした。このことをイエス様が話してくださいました。
新約聖書 マタイによる福音書 11章12~14節
バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。
新約聖書 ルカによる福音書 1章17節
彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。
神様はお答えになるとき、各自が尋ねたその立場でお答えになります。聖書でイエス様が話された言葉も、どのような問いに対してお答えになったか、どのような立場でそのことをおっしゃったかを悟って理解してはじめて、その御言葉を正しく分かるようになります。
ある時イエス様は同じことなのに、ある人には「しなさい」と話され、またほかの人には「するな」とおっしゃいました。どうしてそうなさったか、イエス様と本人だけが分かります。それぞれの心が違うからです。
神様はいつも理に適う形で話されます。その御言葉を正しく悟って正しく行ないつつ神様のことを喜び、愛し、感謝して生きるのが深い信仰です。
信仰生活をする中で本当によいことがあります。罪を悔い改め、きれいにすることが本当にいいです。その人は罪の荷をなくした人です。
罪は霊を病気にならせ、死なせます。だから罪を犯したら神様は苦しくさせて悟るようにさせます。それでも悔い改めなければお裁きになります。
生まれ変わらなければなりません。天の命として生まれ変わらなければなりません。よいぶどうの木に接ぎ木することです。
心が天国になってはじめて肉の体も天国です。地球世界どこに行っても心が楽であってはじめて天国です。
神様は地球世界の胎内にいる人からはじめて、息のある人たちまでみんなを顧みます。人を産んで放っておいたら誰でも寿命どおりに生きることはできません。しかし願い求めない人には基本以上にはしてあげません。その人は自ら悟ってやらなければならないので難しいです。
悟るように、新約聖書マタイによる福音書7章7節を読んでみてください。
新約聖書 マタイによる福音書 7章7節
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
願い求めるときはそのことに該当する人に願い求めなければなりません。
神様は条件なしに接することはなさいません。生活の中で身をもって味わいながら問題の答え、生活の答えを悟るようになさいます。そうしてはじめて自分が自ら認めるからです。
神様が予定はすべてよくしておきましたが、時代と個人本人たちがよくやってこそ栄えます。分かって自分の責任を果たすかどうかによって禍と祝福が左右されます。
恐ろしい火災が起こらないようにするためには、火事が起こらないように、火災が起こることが不可能なように、はじめからしておかなければなりません。火災が起こらない家や会社や地域は、火災が起こらないように、火事になることがはじめから不可能なようにしておいたからです。
みなさんもそうです。信仰の火災もそうです。すべての犯罪が不可能であるようにはじめから完全にしておけば、個人も国も問題が起こりません。
神様は神様ご自身に該当することは完全にしておきました。喩えで言うと、アリが象を捕食できないように、アリが象を食い殺すことが全く不可能なように創造されているように、神様は完全にしておきました。だからサタン、悪魔、悪霊は天国を襲うことができません。完全にしておきました。
月明洞(自然聖殿)も一度山火事が起こって、そのあとからは全く火事が起こることが不可能なように核心地の雑草をなくしました。雑草が堆肥にもなりますが、それだけを考えていたのでは、それによって火事になります。堆肥は別途やればいいです。個人もそうです。一つを犠牲にしてはじめて一つが完全になります。
サタンと悪たちが全く付け込めないようにしておくべきです。個人も教会もそのようにしなければなりません。完璧に完全にしておいて生きたら、事故が起こることは不可能です。霊も肉も事故が起こることが絶対に不可能にしておいて生きるべきです。神様の真理の一つの御言葉は千のことを解決するところに使われます。家も周りも火事になることが全く不可能にしておくべきです。
家を建て終えて最後に門をつくらなければ、完工していないので、家として正しく使うことができません。このように信仰も小さくても大きくても完成してはじめて、正しく楽に使われます。みんな最後までやって、完工した信仰にならなければなりません。
神様は時代が発達するにつれ、個人まで動かして接してくださいます。しかし時代の雰囲気がよくても、神様を呼んではじめて、雰囲気に合わせて接してくださいます。自分一人で心と雰囲気に酔いしれて生きたら自分で終わります。いつも主と共にしなければなりません。いつも主神様、聖霊様です。
ただ信じるだけの信仰者になってはいけません。
微細なほこりのように小さいことまで細密に精密な信仰の生を生きなければなりません。文字一字も点が一つ欠けていたらその文字に見えません。
私たちの行ないもそうです。すべきことをすべてして、一つをしなければ、文字の点を一つつけなかったことと同じです。そうしたらその文字だと分かりません。
仕事もそうです。最後の一つをしなければそのことが確実にはできません。最後まですべてやらなければなりません。
すべての存在物も機械も数千個の部品を組み立てて完成しても、たった一つでも機能しなければ、全体が正しく機能を果たせず、作動できません。
信仰もそうです。
信仰は矛盾を捨てること、神様、聖霊のために愛で行なって善で備えることです。みなさんもそうすべきです。備えてはじめてお選びになり、また選んだからもっと備えなさいとおっしゃいます。神様はこのようにしてこられました。肉が行なうことで備えたら魂も霊も備えられます。神様が大きいことはすべて備えたけれども小さいことは備えていないと言って「超微細な埃の信仰をしなさい」とおっしゃいました。
自分のことは最後まで自分がきちんとやらなければなりません。自分が何を備えるべきか、自分が分かります。そして自分の仕事は自分が一番よくできます。夜も昼も自分が自分の体の主人になって動くから、自分がやればいいです。
やろうとしたら「捨てて備えること」をすぐにできます。
自分の家と庭を新しく素敵に直して見せれば自分も嬉しいし、人々も喜びます。これと同じく、自分の信仰も人生も直して叫び伝えたら誰もが喜びます。直さずに叫び伝えたら知っている人が聞いて指摘します。言葉と行ないが違うと言い広めます。
今日はここまでにします。神様と聖霊の愛とその恵みと平安を祈ります。
2026年10月11日 御言葉より抜粋 説教者:チョンミョンソク牧師

