イエス様は世の中の光として来た

霊的にみたら、全ての人が闇の中に住んでいます。霊的な目で見ればそうだという事です。だから人々は哲学を云々し、人生は何の為に生きるのかという話をするようになります。しかし光の前に来たらそういう事は言わなくなります。

「光が現れた。ゼブルンとナフタリの地に光が現れた。死の陰に座っている人たちに光がさした。」

預言者たちはイエス様についてこのように預言をしました。死の陰に座っていた人たちに光がさしたという事です。

もし光がないんだったら、生きていく上でどれ位差し支えがあるかわかりますか。

まず健康がダメになります。精神的な喜びもなくなります。雨の降る日洞窟の中にずっといると、健康も悪くなり、精神的にも苦しみを受けます。

私もベトナムで40日間ジャングルの中を歩き回った時がありました。その時は頭がすっきりしないし、気分が悪いし、体中がかゆいような感じでした。

梅雨時も不快指数が非常に高いです。しかし雨の後、光がさしてくると「やあー」と感嘆詞が出てくる位うれしいです。そして頭がすっきりしていきます。

光が口に入るでしょうか。鼻に入るでしょうか。光は目から入るしかないんです。眼差しも光です。だから光は光と通じるんです。夜は暗いから良く眠れるんですと言う人もいますが、1ヶ月も2ヶ月もずっと暗かったら問題が起こるんです。

この世に光が絶対に必要であるように、人生に於いて、命に於いて神様の真理の御言葉は絶対的なものだという事です。御言葉が光だと言ったのです。旧約には光がありませんでした。新約の時はイエス様が光でした。みなさんは御言葉の光の前にきました。

みなさんは光の前にいる人たちになりました。イエス様自体が真理の光であり、イエス様の行い自体が光で、イエス様のおっしゃる一言一言が全て光でした。光は真理であり命でした。光は癒す光線になりました。その真理は全ての人にとって命になりました。

イエス様は「私の言葉は命だから守りなさい。私は世の中の光として来た。私を信じる人は全て闇にとどまらなくなるだろう。」と話されました。

イエス様を信じてついて行ったペテロやアンデレ、全ての人々は光の前に行った人であり、その当世の光の中に住んでいた人たちです。真理の光の中に住むようになったという事です。真理の光、時代の光の前に立つようになったという事です。もはやみなさんは闇に止まらない霊と肉になりました。

1998年6月28日 主日礼拝の御言葉より抜粋

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