[Word]最後の晩餐4ーイエス様の心

キリスト教福音宣教会 最後の晩餐
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続き

その日の夜、主はイスカリオテのユダは弟子ではないと分けました。イスカリオテのユダは主を売る人だと主は既にご存知だったので、主と弟子たちの最後の晩餐は11人の弟子にだけ該当する晩餐でした。神聖な礼式でした。

神様に遣わされて来た、人類のメシヤでいらっしゃるイエス様を、その時代が受け入れて歓迎したなら、誰がイエス様を殺したでしょうか。弟子たちのように、井戸端のサマリヤの女のように、ベタニヤのマリヤやマルタのように、みんなイエス様を歓迎し、喜んでついてきて、「主よ、感謝します」と言ったなら、誰がイエス様を殺したでしょうか。

ユダヤ民族もローマ人たちもイエス様に従ったなら殺さなかったでしょう。彼らがみんな義人なのに、どうしてイエス様が代わりに十字架を背負い、代わりに死んであげる歴史として、神様が御心を変えたでしょうか。

イエス様の死が決まるまでは、聖餐式をしませんでした。以前は一切れのパンでも一杯の水でも、主と共に喜びで分かち合いました。主の運命が苦難の主に変わってしまってから、聖餐式をしました。

主が福音で遣わした人を憎むことと反対することが、結局、主に反対し、憎み、止めることになったのです。

憎んだら殺人を犯したことになると言いました(Iヨハネ3:15)。結局、時代が主を憎むことで、十字架につけたことになりました。主が遣わした人の話を聞かないことが、主の御言葉を聞かないことになったし、主が遣わした人を憎むことが主を憎むことになりました。

霊的に見れば、憎むことは殺人をすることと同じだと言いました。主の使命者たちを憎むことで、主を殺したことになり、十字架を背負ったことになったのです。

時代が福音を歓迎したなら、どうして心情的、精神的、肉体的な苦難を受けるでしょうか。喜んでついてくるのに、どうして十字架を背負うでしょうか。

主が犠牲になってから、弟子たちによって福音が広がっていきました。イスラエルだけではなく、ローマと全世界へ主の福音が広まっていくのを見て、みんな驚きを禁じ得ませんでした。死んだ人が生き返ったのを見て驚くように、主の救いの歴史が広まっていくのを見て、その時代の反対者たちはみんな驚きました。

苦労しても、命の道、永遠な幸せな道、救いの道を行くから、どんなに幸せですか?

主と共に生きれば、主が先頭に立って生きてくださるし、環境と状況を変えてくださいます。

 
2009年11月11日(水)コリント第一の手紙 11章23-29節
説教者:チョンミョンソク牧師

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