先日、教会メンバーの楓さんと話す機会がありました。
一緒にランチに行き。
なんだかんだ3時間話してました(笑)
長々話す中で、<摂理教会に導かれた後に、苦しんだ経緯>について、互いに自然と話すようになりました。
私も楓さんも、苦しんだ経緯や内容については全く別のものでしたが、一つ共通していたことがありました。
それは神様の愛を苦しむ中で感じたことです。
神様を信じているから、なんにも事件が起こらないとか
悩みが無いとか、そういったことは無いんだと
この約20年の信仰生活で体感しました。
私だけでなく、周りの人々を見ながらも。
時には、
「神様を信じていたのに何故、自分の身にこのようなことが降りかかるんだろうと」
思ったこともありました。
誰かのせいにしたこともありました。
自分を何度も責めました。
この先、何をしたらいいのか頭が空虚なまでの真っ白になったことが何回もありました。
ですが、苦しんだとしても悲しんだとしても。
結局はその中で神様の愛を深く感じる。
私が摂理に来てからの約20年、最終的にはいつもそうでした。
時には真っ白な空虚にしか見えなかった私の未来には、いつも神様がいました。
これを読んでくださっている皆さまの中にも
「何故?」
と思う出来事が起きたり、この先に起きることももしかしたらあるかもしれません。
しかし、神様のことだけは絶対に手放さないでほしいです。
特に信仰ある方の場合、神様にこれを言ったら不平不満じゃないかとか
神様の時間を奪ったらいけないとか、これは自分で解決しなくてはいけないとか
いろいろ考えたりしませんか?
私がそうでした。
でも神様は、例えるなら太陽だとおっしゃいました。
<太陽>は『一つ』ですが、地球世界73億人が一日中使っても何の差支えもないのではないですか。
神様は<太陽>と同じで、一対一で各個人が一日中 神様と対話して生きても、何の差支えもありません。
2016年7月17日 摂理キリスト教福音宣教会 主日礼拝の御言葉より
神様に「どうして?!」という思いもぜひ打ち明けてください。
話せないと思うことを全て話してください。
必ず神様は、太陽のように全て包んで聞いてくださいます。
大変なことがあったとも書きましたけれども。
でもそれ以上に感謝なことのほうが圧倒的に多かったのも、また事実の一つなのです。