私が食事の時に祈る祈りです。
毎回決まった祈りではありません。
そのとき、心におもうことを祈ります。
こうやって私が飢えない様、霊魂肉、全てを満たしてくださっていることに心から感謝します。
人々を通して神様が与えてくださいました。
農家の方をはじめ、料理を作ってくださった方々の上にも、主の祝福が満ち溢れることを心から願います。
この食事を食べる人全ての健康が守られることを祈ります。
主の御名によって祈ります。アーメン
私が祈る時は短めです。
長い人もいます。
どちらが正解とかはありませんが
摂理の先輩は
「代表祈祷のように長く祈っていたら、ご飯冷めちゃうよ(笑)」
と話していたことがあります(笑)
何故食事の前にお祈りをするのか
いくらお腹が空いても
御飯をひと匙すくう前に
あなたは先にその方を想いなさい
そして感謝しなさい
そうでないと不平不満
さまざまな争いが起こるだろう急ぐとしても
初めの一口を噛みながら
あなたは先にその方を想いなさい
そして感謝しなさい
そうすると食欲が出るだろう
舌触りも良くなり
御飯が薬になって万病を治し
健康になるだろう
霊魂は喜び
鷲のごとく新しい力を得て
あの高い空まで
飛び回るだろう鄭明析牧師の詩 その方を想う より
全能なる三位一体が「人間が生きられる土台と状況」を作ってくださったから、それが大きく大きいです。
神様が人間に太陽を与え、地球世界を与え、水を与え、空気を与え、地を与え、万物をくださったから、人間が苦労して生きたとしても、生きられたのだ。‐これが生の楽しみです。
いくら他の苦労と困難がなくても、‐<生の絶対の基本>である太陽や、水や、火や、空気や、地の中の一つがなくなるなら、その時は本当に生の味も、楽しさもなく、徐々に終わります。
全能なる神様が「人間が生きられる土台」を全て作ってくださったから、苦労しても、大変でも、人間は生きられるし、生きる楽しみがあります。苦労しても、苦痛を受けても、生きられるから、どれほどいいでしょうか。
神様は人間が生きられる「宇宙、地球、太陽、空気、水、火、万物」を創造してくださり、人間が生きられる「適切な気候と温度」をくださいました。
だから人間が苦労して生きるとしても、神様を恨んだら、逆賊であり不法者になってしまいます。<生きること>は「自分の生」だから、自分が研究して努力しながら熱心に生きればいいです。
人間が持って生きられる「体」までくださったから、神様がくださらなかったとうらむ人は無知な人であり、そのような人はむしろ神様を憤らせて、もっと得ることができなくなります。苦労しても、困難があっても、大変でも、「生きられる体と土台と状況」があることに感謝し、「生の楽しみ」とは何なのか悟りましょう。 信仰もそうだし、引き上げの生もそうです。
2016年7月18日月曜日明け方の箴言より