救い主、ヘブライ語でメシア、ギリシア語でキリスト。
私はキリストに対して大きな誤解をしていました。
イエス様が嫌いだった
私は中高生の頃、イエス様が嫌いでした。
聖書の聖句を幾つか知り、「なんて偉そうなんだ」そのように思っていました。
神様の存在は生まれてから一度も疑ったことも無い私ですが、イエス様が
ヨハネによる福音書14章6節
イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
とおっしゃった箇所が、嫌いになる決め手でした。
「なんで神様の元に行きたいのに、イエス様を通さなきゃいけないの?!」
反発心(*_*)
そうして摂理のバイブルスタディを聞き始めたころ、一つの夢を見ました。
夢の中でイエス様は小さな人形でした。
イエス様を、私がサッカーボールのように蹴っていました。
私の認識がそうだったということです。
とても恐ろしく、申し訳ない事です(><)
イエス様を殆ど知らなかったのに嫌いだった
正しく見られない人たちが多い。
自分の望みどおりに、自分の考えどおりに、見る人たちが多いです。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
神様が送られた使命者について書かれた言葉ですが、本当に私自身がその御言葉の主人公になってしまっていました。
その通りの人でした。
知らないから。
自分の夢を振り返っても、キリストを知らないと勿体ないどころか、キリストを傷つけてしまうんだという事実を確認しました。
せっかく神様が送ってくださったプレゼントなのに。
端の方の部分だけを見ると、
全体を正しく認識し、見ることができません。
全体を見てこそ正しく見ることができます。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
これだけ見るとイエス様と女性しか見えなくって「イエス様は奥さんがいたのか」
となってしまいますが
全体を見るとイエス様が、親子に語りかけているのが分かります。
まさに、端の部分だけ見てました。言葉をそのまま私の考えで解釈して受け取っていました。
していることを見て
「どうしてこれは知らないのだろう? どうしてこのようにしないのだろう?」と考えている人たちがいます。
全体を見てしていることなのに、部分的に見て誤解する場合が多いです。
当初目的にしていた方向に進む途中で方向を変えて、別の方向で行くとしても、
すべての行いを無条件信じて、従ってくれる人たちが必要です。
あちらこちらに方向を変えながら結局は目的地へ行くことだから
根本を悟って見ながら行わなければなりません。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
聖書を見ると「どうして?」と律法学者たちが考えている場面が何度も出てきます。
私も律法学者のような一人だったんです。
「どうして?」
「意味分からないんだけど。」
「偉そうに」
そんな風に思っていた中学生・高校生でした。
何一つ学ぼうとして無かったのに。
学ぶことを怠けて、キリストにレッテルを貼ったのは私でした。
見える神である時代の救い人を絶対に信じて、
仕えて、従いなさい。
最後まで行ってこそ分かることができます。
神は過程の中では明かしません。
神の方法を正しく分かって、その御心どおりに行いなさい。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
旧約聖書ダニエル書12章9節
彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。
そう、過程の中では明かさない神様です。
神様は全てペラペラ話す方ではありません。
話すことによって良いこともあれば、今の時点で話さないほうがいい。
人間でもそういうことありますよね。
キリスト イエス様に対しての接し方は、他の全ての接し方と一緒だった
見る次元、接する次元が、自分の水準です。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
神様が送られ方、使命者、キリストに接する接し方が自分の水準というのは否定できない事実です。
私はそうでした。
イエス様のことを嫌いだった当時、私は人を表面的に見ていたことが結構あったと記憶しています。
テレビで流れてくる直接会ったことも無い人のことを、断片的に得た情報だけで好き嫌いを判断していたり。
これってよく考えると不思議ですよね。
どうして断片的に得た情報だけで判断しようとしたのでしょう。
キリストに対する接し方が、結局は他の人達や物事に対しての接し方と一緒だということを身をもって学びました。
キリストは実際に会ったら自分の思っていた人とは違う方
実際は三位が直接働きかけているのです。
しかし、そのこと自体を理解し、受け入れるより
自分の考えの物差し、自分の基準に合わせて見て、
することを理解できず、
間違って判断してしまう人たちが出てきます。
すべての行動が見えるようになったら
もっとそうなるでしょう。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
当時の律法学者など、キリストの出現を切に待ち望んでいた人たち全てが
イエス様を受け入れたわけではなく逆でした。
実際に会ったら違ったのです。
新約聖書 ヨハネの黙示録3章3節
だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。
もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。
盗人のようにとは、突然来る人のことの例え。
決して分からないということは、自分の好み通り、知っている通り、予測している通りには来ません。
これを知らなければ、イエス様を十字架につけてしまったことと同じことが起こります。
キリスト 救い主が来た目的とは
人間の要求事項をすべて聞いてあげるために
救い人がいるのではありません。
ひたすら三位(神様、聖霊様、御子)の御心を成し、
三位の歴史を成し遂げるため、三位と人間の愛の歴史を成すために神様は救い人を送ったのです。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
世の中の政治家だって、国民の要求をただ聞いて実行するだけだったらとんでもない方向に行きます。
ある人は一部分だけ見て要求するかもしれません。でもそれが国全体にあうかといったらそうでもないこともあります。
それを調整して実行するのが政治家。
ただ要望が高いからと言って実行していたら、この日本も崩壊するでしょう。
神様の送られる使命者はもっとそうです。
もちろん神様は一人一人の構想や夢も凄く大事にしますが、それをそのまま受け入れていたら、その人の命の損失につながることだってある。
判断できるのは求める本人ではなく、全てを知っているただ神様のみです。
人の意向ばかり成し遂げるキリストではない
新約聖書マタイによる福音書27章 22節
ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。
イエス様を十字架につけよと直接言ったのは民衆たちです。
マタイによる福音書27章を見ると、祭司長・長老たちはイエス様を殺そうと計画をたて、
総督ピラトにイエス様を引き渡しました。
総督ピラトは、祭司長や長老たちが妬んでイエス様を引き渡してきたのを知っていたので
イエス様を許そうとしていました。
そして恩赦の時、人殺しの罪を犯した有名な囚人バラバとイエス様を民衆の前に立たせて
「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。
と総督ピラトが話しました。
しかし、民衆たちは祭司長たちや長老たちに先導されて、バラバを許してほしいといい
イエス様に対しては彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言ったのです。
その後、イエス様は十字架につけられてしまいました。
神様は「あなた」に合う愛をするために救い人を遣わしたのではありません。
「あなた」のために救い人が来たのですが、あなた一個人の思いを成してあげるために来たのではありません。天の御心を成すことの中に、個人の歴史の御心を成すことがすべて入っています。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
自分の意向を強く持ちすぎると結局、キリストを受け入れられず十字架につける人になってしまいます。
絶対にそれは避けなければなりません。
自分の意向を成すところに救い人を利用してはいけません。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
理論ではなく、実体的に深く悟って、受け入れなければなりません。
キリストが成し遂げる歴史は、人の考えどおりに成されません。
人が期待し、望んでいること、それ以上です。
-摂理 キリスト教福音宣教会 御言葉より
キリストが成し遂げる歴史は、人の考えどおりに成されず、人が期待し、望んでいること、それ以上だと。
なんてかっこいい言葉でしょう。
誰にこの言葉が言えるでしょうか。
人は望み通りのものがあったらそれはそれで嬉しいけれども
望み以上のものがあったら、もっと何倍も何十倍も嬉しい。
真実な感動は、元々予測していた中で起きるものではありません。
私の人生一つとっても真実に感動した時というのはいつも、期待し望んでいたこと以上のことが起きた時でした。
キリストは本当にかっこいいです!