「反応がない」ということは何かというと、神様を近くせず、神様の言うことを悟れず、神様のことを分からず、このような人たちのことは「反応のない人たちだ。」
反応について指摘した内容は何かというと
「どうして神様が愛してあげても反応に、愛に反応がないのか。神様が助けてあげても、どうして感謝する気持ちがなく、『感謝します』と言わないのか。どうして神様が話しても、返事がないのか。」
このようなことが、「反応がない」と指摘なさいました。叱られるべきことです。
神様の考えどおりにやらない人たちは「反応がない」とおっしゃいました。神様が聖書を通して話した内容を見ると、厳しく叱られました。
神様は「反応がない」ことで叱ったり、イエス様は失望しました。
そして、ある村にはいられると、重い皮膚病にかかった十人の人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、 声を張りあげて、
「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」
と言った。イエスは彼らをごらんになって、
「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。
イエスは彼にむかって言われた、
「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
新約聖書 ルカによる福音書 17章12ー19節
反応しないことについて指摘した神様は、やはり愛の神様だと深く感じました。
先に神様が人間を愛し、多くのものを与えてくださいました。
それに対しての反応、例えば感謝、愛の反応。
してくださったことについて、ありがとうという。
これは当たり前のこと。
でもその当たり前すらできていない。
自分自身を振り返る今週です。
反応は本当は難しくない。
要はどれだけ神様がしてくださったことを悟るか。
また、「やってるつもり」から抜け出せるか、抜け出せないか。
いくら、上手に話しても相手に伝わるようにしないと
それが意味を成さないように
私が「つもり」にならないように。
今週こそ、次元を上げます。