人々は恵みなのか災いなのかよく分からないで生きています。
例えば聖書をみるとヨブは多くの苦難を受けました。(旧約聖書ヨブ記参照)
それは災いではなくて恵みを受けたことに対する練達であり、もっと大きい恵みを受けて享受する為の練達でした。器を丈夫にするのと同じことでした。結局ヨブは大きな祝福を受けて暮らしました。
もっと良い家に住むために家を崩して直すのと同じです。ある身ごもった女の人が苦しみを受けていました。それは苦しみではあるけれど、災いではなく、ある罪の代価でもなく、それは一つの恵みです。子供を生むためのもがきの苦しみも一つの恵みです。
イエス様を信じて多くの艱難苦難がありました。それは罪の代価ではなく、恵みの中に入っていく艱難なのです。だから艱難を受けても喜びなさいと言いました。誰でも、どの民族でも、もがきの苦しみの後には祝福を受けるようになるし、理想を享受できるようになります。私達が今神様を信じて、メシアを信じて受けている全ての苦痛は災いではなく、祝福を受けるための一つの苦難です。落胆してはいけません。
またある人々は災いを受け裁かれているのにそれを恵みや練達だと思う人もいます。愚かさによってこの両方の事を悟れないで生きています。恵みに対する練達は、その困難、苦しみが終わった後に、身ごもった人が苦しみの後に子を抱けるように、理想的なものを得られます。苦難の環境、苦しみに打ち勝った人は理想的なものを得られますが、災いを受けた人は裁きだからそれで終わってしまいます。
ノアは畑と自分が住んでいた家を全て捨てて箱舟の中で長く暮らすようになりました。それはある意味では災いを受けているように思えますが、死んだ人に比べれば恵みを受けているということです。神様の恵みの中で暮らしているということです。
ロトがソドムの地から出てきて、住める家もなく山に住んでいました。それも、ともすると災いを受けているように思えますが、実は恵みを受けていたのです。他の人達は皆死んだのに、自分だけが助かったから命の祝福を受けたのです。
このように災いなのか、恵みなのかを分別し、知らなければなりません。
2000年2月20日
主題 恵みと裁き
ルカによる福音書17章26−30節
主日礼拝の御言葉より抜粋