自分について何故知らないといけないのか

<部分的>に知るのではなく、<完全にはっきり>知りなさい。

<部分的>とは、「一部」を言う。これはちょうど、ある人が「農夫」だということは知っているけれども、「どういう農作をしているのか」は知らないのと同じだ。

それなら<顔を見るようにはっきり知ること>とは、どういうことか?「その人が果樹園を持っている農夫で、ブドウだけを集中的に農作をしている女の人で、ブドウの中でもマスカット農作だけをしている」‐これぐらいは知ってこそ、<部分的に知るのではなく、顔を見てはっきり知るように知る人>だ。

 

<部分的に知る人>は「真っ暗な夜に景色を見るような人」だ。

<人>も<聖書>も<御言葉>も100%知ってこそ「正しく知ること」だ。

 

正しくはっきり知らない状態でやっておいたら、立てた岩が崩れるように崩れる。

<部分的に知る人>は自分の行くべき道を正しく行けない。

 

<新しい時代のこの時を迎えていながら部分的に知る人たち>は「自分たちが学ぶべき責任分担を果たせないから」だ。

過ぎたあとは、<部分的に知っていたこと>を「はっきり」知るようになる。

 

<悪人も善人も行なう時は分からなかったこと>も、主の日が来たら「はっきり」分かるようになる。

<聖書の深い御言葉>を「はっきり」分からないから正しく行なうことができず、「部分的」に大雑把に分かって生きるしかないのだ。

 

<自分の使命を100%知ること>だ。

*2019年9月5日 明け方のみことばより

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