メシヤ(キリスト)に自分の人生を全て委ねるべきなの?

  • URLをコピーしました!

<自ら立つ人>が「大きい人」です。

<自分>が自ら存在し、自ら走らなければなりません。

<大きい石>が「前にある石」に寄りかかったら、前にある石は「3倍以上の重量」に耐えなければならないので、だんだんと傾く。<人>もあの人この人に寄りかかったら、相手が重さに耐えられなくて倒れるようになります。だから<自分>が「自分」に頼って立たなければなりません。

先生は15歳の時から自ら聖書を読んで御言葉を一つ一つ悟りました。そして「誰が何と言っても私が悟ったことが正しい!」と言って、御言葉にはっきりと立ちました。自ら悟って立ったので、誰の言葉にも揺れませんでした。

今は<自分が自分を楽にさせて生きる時代>です。過去は「親のおかげ」で、「子どものおかげ」で生きたけれども、今は自分の身の上をよくして「自分のおかげ」で生きたがります。

<自分>が「自分」の面倒をしっかり見なければなりません。

数多くの人たちが<主>のために鐘を鳴らすと言うけれども、主のためにばかりやっていたら「根のない木」になります。だからまずは<あなた自身>のために鐘を鳴らしなさい。

<主のために鳴らす鐘>は「真実な一度」あればいいから、自分のために鐘を鳴らすことがふさわしいです。

主のところに、<自分の大きい夢>を成してから来ても、むしろ<主>があなたたちに助けになってあげます。

<親>は子供が富、栄華を極めるようにしてくれるといっても、「子供が豊かに生きること」だけでも満足し、喜びます。それを見たら、過ぎた日の苦しかったことがすべて消えてしまうからです。<主>も「ついてくる人たち」を見てそうです。

<自分に該当する専門性>をもって「自分」のために、「主」のために使って生きなさい。

<他人が享受するようにしてくれる栄光>は「限界」があります。自分が「自分の夢」を成し、「自分の理想」を成してこそ、王のような生を生きます。そのためには「自分がすべきこと」がものすごくあるけれども、それをすべてやって生きなければなりません。

<他人>が仕えてくれ、平安にしてくれるからといって王になるのではありません。<自分>が「自分のすべきこと」をしながら熱心に走るとき、「王のような祭司長」になって、楽に栄光を受けて生きることができます。

1この世で<自分の人生をすべて委ねられる人>はいません。メシヤには信仰で委ねるけれども、だからといって<自分の人生の生>をすべて委ねたら、「生の楽しみ」をなくしてしまいます。「働く楽しみ」、「動く楽しみ」をなくしてしまいます。

<メシヤ>には「信仰」で委ね、<自分の人生の生>は自分が責任を負って生きていってこそ、「人生の楽しみ」を享受します。

 

2020年1月29日水曜日の明け方の御言葉

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次