皆さんは「誰か」を待ったことがありますか。
今は「誰を」待っていますか。
そして「誰かを涙で待った人」を知っていますか。
待つことは、いつ終わりがくるか分かりません。
自分一人で何とかできることではない相手や事象を待ちます。
自分で何とかできるなら待つ必要はないでしょう。
待てる人は強いです。
待つということは信じていないと出来ません。
「きっといつか時が来た時に成される」
そう思っていなければ待つことは出来ません。
待つ人はいつも準備万端です。
それを待つというのでしょう。
本当に長く待てる人は喜びの心を持っています。
再び会う相手がいること自体が本当に喜びで嬉しいことです。
そして胸が張り裂けることでもあります。
時には辛いこともあります。
いつになったら、晴れやかに笑いながら私の前に現れてくれるだろう。
あれほどまでに願ったこの場所に帰ってきてくれるだろう。
私が代わりになれるものならば代わりになりたい。
でも代わりになれない自分を恨めしいとさえ思う。
待つことは奇跡の連続のようであり
待てること自体が奇跡のようだとも言います。
待つという行為全てが愛情から来るからです。
知らなければ・・・当世はもちろん、歴史を成して数百年、
数千年流れていっても知らない。
蒔いた種が、芽が出る時まで、主人は待つ。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より
例え、待っていなかった人に会えなかったとしても
その「待っていた姿」そのものが多くの人達に感動を与えます。
東大ハチ公物語-ハチ公の飼い主って誰?<摂理人の気になるニュース>
でも書いたように、有名なハチ公も10年待ちました。
会えなかったけれども、その待つ姿は人々に感動を与えました。
待つことは愛そのものです。
皆さんは人生を生きる中で何を待っていたでしょうか。
私も待っている人がいます。
待っていた人を知っています。
一人一人を愛する心で待っている神様を知っています。