「誰になんと言われようと信念は曲げてはならない」
最近、摂理の牧師さんから聞いた言葉。
そもそも曲がるようなものなら信念ではない。そして真理でもない。
今まで色んな人達に出会った。
その中で信念を最後まで曲げない人。
そこまで人数は多くない。
皆さんも今まで出会った人達の中で、信念を最後まで曲げなかった人を一体何人見ただろうか。
神様を信じている信じていないに関わらず、信念を貫き通せる人というのは少数派だ。
信念を貫き通した人というのは、本当に偉大だ。
そして難しいことでもある。簡単なら皆、出来る。
そして自分に対しての信念だけでなく、人が何らかの目にあっていて
それに対しても信念を貫き通せるのかというと、更に人数が絞られていく。
宗教の歴史、旧約と新約、そしてイエス様が産まれた以降のこの2000年。
冤罪は数えきれないほどたくさんあった。
摂理人の気になるニュースでも書いたように、イエス様自身が冤罪にあってしまったとも言える。
この時、たった一人でも信念を貫き通してイエス様のことを冤罪だと、言い切る弟子がいたのであれば
何らかの歴史は変わったのかもしれない。
イエス様が亡くなった後、偉大な歴史が弟子たちによって広がって行ったが
イエス・キリストが生きていた時に出来たのであれば・・・とも思うのは私だけではないはずだ。
では今の時代に同じことが起きて果たして信念は貫き通せるのか?
同じようにキリストが目の前で罪をかぶせられ、それを冤罪だと私には言い切ることが出来るのか?
そうできない限り、私はただキリストを眺めるだけの人になってしまう。
いじめを黙認する人と同じことをしてしまう。
黙認するのはある意味、それを認めるのと結局は同じ行為になってしまう。
冤罪からキリストを脱出させてさしあげるのは到底不可能なことになってしまう。
私は神様が悪く言われていたらそうでないと伝えたいし
キリストが冤罪にあっていたら、守って差し上げたい。
全能なる神様が守るのに、誰が害を加えるだろうか。
神様があなたにそのように働きかけ、あなたをそのように保護し、守ってくださる。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より
神様はこのように守ってくださる神様だけれども
私自身も神様を少しでも守って差し上げたい。
必ずこの信念だけは貫き通せるように、真実に祈りたい。