神様の<法>は人間の自由を縛るものではありません

「法は神様だ。愛し、守りなさい。法があなたを保護する。」
2017年10月22日主日の御言葉より抜粋

ヨハネによる福音書14章15節『もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。』

箴言3章1節『わが子よ、わたしの教を忘れず、わたしの戒めを心にとめよ。』

箴言4章2節『わたしは、良い教訓を、あなたがたにさずける。わたしの教を捨ててはならない。』

箴言7章2節『わたしの戒めを守って命を得よ、わたしの教を守ること、ひとみを守るようにせよ。』

<法>と言うと、「固い。冷徹だ。怖い。制約する。縛りつける。自由をなくす」と認識します。また、<この世の法>があるけれども、公正ではなく、公平ではないから、その認識をもって<神様の法>もそのように認識します。だから<法>を正しく認識させ、<法>が好きで愛し、守って行なうように、神様と聖霊が<法>について話してくださいました。

<法>と言うと、「罪」を思い出します。しかしこれからは「認識」を変えることを願います。神様と聖霊様と御子が<天法>を宣布なさり、<世の中の人法の中の核心>を宣布なさいました。

<モーセの十戒>も「神様の法」です。言い換えると、<神様が人間に願われる願いと希望>です。<第一の戒め>は、「私以外に他の神に仕えるな」とおっしゃいました。これを言い換えると、「私エホバ以外には他の神はいないから、ただ私だけに仕え、愛しなさい」という<神様の願い>です。人間を創造なさった神様が人間に自分を愛してくれということだから、その法がどれほどいいでしょうか?

神様はまず人間に<法>で「条件」を与えて、その御言葉を守れば<祝福>を与えるとおっしゃいました。「永遠に祝福を与える」ということです。だからその「法」がどれほどいいでしょうか?<神様の願い>です。

反面、<法>で「条件」を与えて、その御言葉を守らなければ、それに従って<代価>を払わされるようになります。

人々はよく「法が怖いです。法は自由を縛ります」と言います。しかし<法>は人間の自由を縛るものではありません。<法>は死の道、裁きの道に行けなくし、命の道、祝福の道に行かせるものです。

<法>は神様、聖霊様、御子でいらっしゃいます。神様の願いです。救い人を通して新しい時代に宣布した神様の願いです。はっきり認識することを願います。

だからこれからは<法>と言ったら、「神様」を考え、「祝福」を考えなければなりません。<神様の法>も<世の中の人法>も「自由を縛るもの」ではなく、実際は「保護し、守ってくれるもの」です。人々がしきりに危ない所に行って死ぬから、<法の網(あみ)>を張り巡らせておいて、<安全網>も張り巡らせておくのです。

それなのにこのことを知らずに、「どうして行けなくするのだろう?どうして自由を拘束するのだろう?どうして法で治め、縛っておくのだろう?」と言います。

<交通法>も「自由に対する拘束」ではなく、保護の法です。<交通法>を作っておかなければ、交通が無秩序になって、人々は本当にたくさん怪我をし、死ぬでしょう。

人は<神様の法>と<世の中の法>を離れて、自分一人で人里離れた所に行って生きるにしても、<生活の法>を守らずにみだりに行なったら、水に溺れて死に、絶壁から落ちて死に、病気にかかって死にます。だから<法>はどこに行っても守らなければならないし、一人でいても守らなければなりません。

<法>は「祝福」で、「保護する網」です。

<法>について「認識」を正しくしてこそ、<法>を「首」にかけ、「手」に握り、「脳と考え」に入れて、愛して、守って生きるようになります。そうすることで保護もされ、事故も起こらず、問題も起こらず、うまく行き、栄えます。

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