人は「機能」を果たせなければ「死んだ」と言う。
神様と聖霊様と御子の前で機能を果たせないから
「死んだ肉、死んだ魂、死んだ霊」と言うのだ。
<家>や<環境>を見なさい。
「さまざまな材料」をもって数千段階で、
いくらでもより良く理想的に作ることができる。
これと同じく<霊>も
「全能なる神様がくださる色々な段階の御言葉」をもって「肉」が行なって、
いくらでもより良く理想的に作ることができる。
人間は「自分が好きな所」に生きてこそ<理想世界>だ。
だから神様は<環境>を数十億、数百億種類に創造して、
自分の個性、自分の体質、自分の考え、自分の次元どおりにその環境に属して生きて、
神様を信じ、仕え、愛して生きるようになさった。
体質になり、好みになれば、
「より劣っているもの」なのに、自分に合うと言って喜ぶ。
<信仰>もそうだ。
だから「自分の体質と好みの次元」を上げなければならない。
「間違った体質と好み」は結局限界にぶつかって、耐えられない。
人は怠けたら、自分の考えと体質が怠けるように変わる。
だから<怠ける次元>が「自分の好みと体質」になって、
そのような生が自分にとっては楽しみであり喜びだ。
毎日<御子の声>を「自分」を通して聞きたいか。
毎日<御子の御言葉>を繰り返してあなたの口で言いなさい。
そうすれば、御子があなたといつも共にしてくださり、導いて、守ってくださる。
御子がおっしゃった御言葉を忘れたら死ぬ。
「死ぬ」ということは、「肉体」が死ななくても、
「その仕事」が死に、「その時間」が死ぬということだ。
御子の言葉が「肉体に該当すること」なのに、
忘れて自分の考えどおりに行なったら、「肉に該当すること」が死ぬ。
毎日「御子」を随時呼ぶ人には御子も随時答えてくださる。
だから、御子が盗人のように来ても、その人には隠せない。
聖書に「誰でも主の御名を呼ぶ人は救われる(ローマ10:13)」と言った。
<主の御名>を呼ぶことがそれほどにも大きい。
<御子の御言葉>を忘れたら死ぬ。
<御子の御言葉>を忘れずに行なえば生きる。
<祈り>を忘れたら死ぬ。
祈れば生きる。
真実に祈ったのに信仰が死んだ人は一人もいない。
「三位が遣わした人」を捨てたら、「三位一体」を捨てたことになって、
「御言葉」を行なっても、その労苦が無駄だ。
<健康管理>を忘れたら、「肉体」が苦痛を受け、具合が悪くて活動できないから、
「信仰」までも死なせ、「肉体」も寿命どおりに生きられなくなる。
<健康管理>を忘れずに毎日管理すれば、「健康の天国」になり、
「体」も貴重に丈夫に美しく神秘的に雄大に作る。
<感謝>を忘れて、しなければ、「信仰」も死に、
「経済」も死に、「希望していたこと」が駄目になり、死ぬようになる。
「感謝しない人たち」は「感謝する人たちのおかげ」で生きている。
しかし、彼らは「経済の乾いた地」に住んでいる。
<思いついたとき記録すること>を忘れたら死ぬ。
忘れてしまうから「その考え」が死に、
行なえないから「肉」も「霊」も死んだ人のようになる。
感動を受けたとき、「聖霊」が来られたのだ。
それなのに、その感動を拒否したら、
「損」をし、行なえなくて、結局「その仕事」が死ぬようになる。
だから、感動したとき、早速行ないなさい。
<御子中心>を忘れたら、
「自分の肉性の考え」だけが残って「肉」で行なうから、
「肉」も「霊」も死亡圏に行って死ぬ。
小さなことでも大きなことでも、
<自分が任された使命の価値>を忘れたら死ぬ。
人間は人間だ。神ではない。
だから、100%完全ではない。
このことを忘れて人を100%信じたら、やられる。