摂理の御言葉は聖書に基づいています。
主日の御言葉で聖句が出ないことはありません。
摂理のバイブルスタディを通して聖書の基本となる話を聞いてから
摂理の主日の御言葉を聞く方が理解しやすいです。
鄭明析牧師が聖書を数千回読んだと話していましたが
数千回読んだことも凄いけれども、その事実より聖句に忠実なところが凄いなと思っています。
聖書を読むと、意味が分からないところも正直出てきます。
そのたびに鄭明析牧師は何回も何十回も、時にはもっと祈ったそうです。
聖書に「誰でも主の御名を呼ぶ人は救われる(ローマ10:13)」と言った。
<主の御名>を呼ぶことがそれほどにも大きい。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より
祈りながら聖書を読むと、一つの聖句からも多くのことを悟れるのです。
かの有名なアメリカの大統領であるリンカーンは常に祈りの人でした。
リンカーンと言うと尊敬の対象のように見えますが、当時は悪口もたくさん言われた人でした。
悪口を言われても言い返さず、ひたすらホワイトハウスの祈祷部屋で祈りました。
画像出典:White House Story
ある時、聖書を読んでいた彼は一つの聖句に目がとまります。
マタイによる福音書12章25節
イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、
「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。」
この聖句を元に、自国が奴隷とそうじゃない人に<分かれていた>状況を想い、奴隷解放を決心したのです。
一つのことだけを見て、自分勝手に聖書を解いて行なっているうちに死亡の方に行き、
「救われようとしてついて来る人たち」まで神様の御心から外れて生きるようにさせ、滅亡に行かせる。
摂理の鄭明析牧師 明け方の御言葉より
もし聖句から、リンカーンが奴隷解放のことを思わなかったら、今日の状況は無かったかもしれません。
このように聖書は歴史を変えます。
歴史を変えますが、そこには必ず祈りが必要だと言うことを摂理の礼拝で学びました。
祈り無しに読んだら、ただの本です。
聖書は神様からのメッセージに他なりません。
深い祈りと共に読む時に、どこかの聖句を通して神様が自分に働きかけます。
それはどこの聖句なのかはただ神様しか知りません。
もし摂理の礼拝に聖書を欠かしたら、摂理の礼拝は絶対に成り立ちません。
礼拝の御言葉は誰かの思いや感想でもないからです。
あくまで神様のメッセージが本体、主体です。
聖書は歴史を変えます。
人類の歴史、そして私達個人という歴史も変えるのです。