「許し」-日本二十六聖人の言葉

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今週の摂理主日礼拝の御言葉は許し

兄弟が間違いを犯して自分に害になったことを考えるから、
叱らずにはいられないし、怒らずにはいられません。
それでも「そのこと」を考えないで、御子主が自分を許したように、
自分も兄弟をきれいに許して、「二度とそのようにしないで頑張りなさい」と言わなければなりません。
と御言葉が出ました。

 

許しは簡単?

許し3

聖書では許しという言葉がたくさん出てきます。
これを通して「キリスト教は博愛主義だ」と言われることもあります。
でも果たして許しは簡単な行為でしょうか。
この前の摂理ブログ「許しの御言葉の日に起きた許せないこと」にも書いたように決して簡単な行為ではありません。

 

今から約400年前。日本で十字架にかけられながらも「許す」と言った人物がいました。

二十六聖人殉教記念碑

豊臣秀吉は1587年12月8日に禁教令を公布、 キリシタン弾圧。

 

大阪と京都で外国人宣教師・修道士6名、日本人修道士と信者18名の合計24名に対し1597年1月10日長崎で処刑せよという命令を下した。一行は大阪を発ち、京都・大阪で引き回しとなり、京都では左の耳たぶを切り落とされ、厳冬時期歩いて、長崎へ向かった。途中2名も殉教の列に加わり、26名となった。
1597年2月5日の朝、ひどい霜の中、約12キロの浦上街道を歩き午前10時頃西坂の丘に到着。すぐに十字架に掛けられ、槍で両脇を突かれ、26名は長崎の西坂の丘で殉教した。
この中には12歳の少年ルドビコ茨木もいた。棄教(信仰を捨てる)するように言われても彼は決して信仰を捨てなかった。
また聖パウロ三木は死を目の前にして、周囲を取り囲む約4000人を超える群集の前で十字架に架けられたまま最後の説教を説いた。

 

聖パウロ三木は牢屋でも、見せしめのため京都で引きまわされたときでも、大坂から長崎までの長い道中でも毎日説教していた。十字架上では「太閤様(豊臣秀吉)をはじめ処刑に関わったすべての人を許します。切に願うのは彼とすべての日本人が一日も早くキリシタンになることです」と最後の説教をした。
この26人の殉教のできごとは、ヨーロッパその他に広く伝わり、1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、26名の殉教者を聖人に加えられ、[日本二十六聖人]と称せられた。
参照:長崎ん町

今ではこのようなことは日本では信じられないでしょうか。その信じられない出来事がほんの数百年前に起こっていました。

この日本二十六聖人は戦うことも出来たかもしれません。それでも戦いませんでした。ひたすら神様の御言葉を述べ伝え、神様に讃美を捧げることに集中しました。戦いはしませんでしたが、信仰を捨てるということはしませんでした。

 

許し2
許さなければ結局自分の中に「許せない」という感情を住まわせてしまいます。最終的には人を殺すことさえ起きてしまいます。。
本当に許せないことが起こったとしても、許しに至れるように。
でもその前に。許せない心の中に潜む、傷ついた心が癒されるように。寂しい心が癒されるように。聖霊様の癒しが全ての人の上に臨みますように・・・。

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