求めず、捜してもいないのにしてあげたらどうなるのか?マタイによる福音書7章

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「求めず、捜してもいないのにしてあげたらどうなるのか」について、先生が経験したことを話します。

一つ、その人に必要なものだから与えたけれども、求めなかったのに与えたから、先生が与えたものだと分かりませんでした。

二つ、求めなかったのに与えたから、大事に思わないし、大切に使うこともしないし、むしろ誤解し、ありがたく思いませんでした。苦労しもがいて得たものではないから、価値を知らず、感謝もできませんでした。

三つ、切実に求め、捜すことをしなかったのに与えたから、与えても私との関係性が近くならない矛盾がありました。

四つ、切実に求めたり捜したりせず私に門を叩いていないのに与えたから、苦しい片思いが続きました。相手にくださいと言われて与えたら、片思いが解決し、片思いの生ではありません。

五つ、求めてもいないし、切実に願ってもいなかったのに与えたから、変に思いました。何か望んだわけでもないのに与えたから、「下心があってくれるのか」と、人に与えて、むしろ誤解されました。

六つ、求めてもいないのに、決心してこちらから与えたから、もらう人は「私にまでくれるのを見ると、もうありあまっているようだ。本当にそのままにしておいたら腐り、さび付くようだ」と思う矛盾が生じました。くれるのが当たり前だと思いました。

七つ、求めないし捜しもしないので、与えたくても何を望んでいるのかが分からなくて、与えられませんでした。

八つ、求めることも、捜すことも、門を叩くこともしないのに、愛して与えるから、まるで時になったら主人に貢物(みつぎもの)を捧げるような感じでした。だから、先生がまるで、その人のしもべのようでした。

九つ、求めることも、捜すことも、願うこともしなかったのに、その人が何を願っているのか心を透視して、そればかりに神経を使うことはできませんでした。自分の息をすることも忙しいくらいなのに、いちいちついて回って、してあげることができませんでした。

十、私に求めることも捜すこともしなかったのに、こちらから、急ぐ時トイレに飛び込む人のように慌てふためいて、してあげる必要がありませんでした。

十一、求めることも捜すこともしなかったのにしてあげるから、聖書の御言葉に違反することになったし、また、もらう人が求めることを怠るようになり、その精神と心と考えが悪くなる矛盾が生じるのを見ました。
神様とイエス様もそうです。サタンは苦労しないで得ることを願います。そして奪っていき、妬(ねた)み、嫉妬します。求めることも苦労もしなかったのに与えたら、サタンが自分側にするからだめだということを悟りました。

十二、求めず、捜さず、自分の責任分担を果たさない人に与えるより、求め、捜す人、自分の責任分担を果たす人に与えてこそ、ずっと喜んで大切に使うのを見ました。だから、そのような人にもっとあげたい気になり、私も嬉しかったです。

十三、求めることも捜すこともしなかったのに、必要だと思って与えたら、感謝するどころか、時になってただで自分のところに祝福が転がってくるものだと思って、「私は運がいい。私は食べ物の祝福を受けている」と、けしからん考え方をしていました。だから、与えたけれども気分が悪かったです。

十四、私に求めることも捜すこともしなかったのに与えるから、ただでもらうことが習慣になって、怠惰の主管圏を出られず生きていました。与える先生も、与えてもあまり喜びがありませんでした。「天も、しようとする人、したくてする人たちを助けるのに、私が天より先走っているのではないか」と思うようになりました。また、行なった通りに与えるべきなのに、そうではなかったから、与えてむしろ罪を犯すことになりました。

十五、求めていないのに与えるから、もらう人が熱心でなくなり、前進性がなくなり、神様と主を切実に呼ばなくなり、近くしないし、人にもっと頼る矛盾が生じました。そして、求めてもいないのに与えるから、もらって自慢をして、ほかの人たちがそれを見て、「私は何なのか?どうして私にはくれないのだろう」と言って、つまずきました。

十六、求めなかったのに与えるから、もらう人も与える人もお互いに意味もなく、御心もなく、嬉しくもなかったし、聖書の御言葉にも外れることでした。

「これと同じく、神様も主もそうだ」とおっしゃいました。神様と主はすべてを分かった上で、与えるべきものは与え、私たちが絶対に求めるべきものは求めなければ与えないし、功績の価(あたい)は行ない通りに与えてくださいます。

恋人でも求める時に与えてこそ情が移り、もっと愛するようになり、やりとりしながら理にかなった生き方が正常になされます。求めてからもらってこそ、おいしいし、意味もあるし、自分の苦労で得たので、自分のものと思って大切に使います。

神様と主は私たちを愛していますが、その時その時ただ与えるばかりではありません。先生は、人間が神様と主の前で求め、捜し、門を叩くべきだということを切実に悟って、必ず必要なものがあれば、自分のために、ついてくる人たちのために切実に求め、捜し、門を叩いて、大切に使って天の業績を残してきました。

私たちが求める時に与えてこそ、全知全能でいらっしゃる神様と主が自分を愛していらっしゃることを確認するようにもなります。

2011年2月23日 水曜日の御言葉
<主題>どうして求め、捜し、門を叩いて祈らなければくださらないのか、分かって求めなさい
<本文>マタイによる福音書7章7~11節
より抜粋

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