文献:「私だけが歩んできた道」より
死のうとすると青春が惜しく、生きようとすると苦労ばかり(2)ー鄭明析牧師
の続き
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そのように祈っていて押さえきれず、着たままの服でまっすぐ家に帰るよりも、畑に行くよりも、聴衆が集まる場所に走っていって声を張り上げた。すると彼らは私のように感動の涙を流すのだった。その時は一生を放っておいて、この仕事だけに身を投じたい心情だった。
老いて腰が曲がった両親は、私がいなければ私の分までもっと荷物を背負わなければならないことを思うと、涙が込み上げてきた。
ある時、祈祷窟から遠くを見ていると、父が麦束を背負ってフェッコル道の山腹を帰ってくる姿が見えた。しばらく見ていたが、ずっとその場にいるようだった。重くて、もぞもぞしながら、牛のような歩みで歩いていたからだ。
「私が降りて行って、1回背負って運んであげればどんなに楽だろうか。食べる時は一緒に食べるのに。これではいけない」と思って、降りていこうとしたら、心のどこかから、未来のために生きよという力強い声が私を引き留めた。肉(肉体)のために生きると、ああいうふうになるのだということだった。私は困り果てた。
「死と生の両方に足をかけた体を、いったい誰が救い出してくれるのだろうか」という嘆きや溜息混じりの声は、山びこをも響かせるほどであった。