死のうとすると青春が惜しく、生きようとすると苦労ばかり(5)ー鄭明析牧師

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文献:「私だけが歩んできた道」より
死のうとすると青春が惜しく、生きようとすると苦労ばかり(4)ー鄭明析牧師
の続き
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今は摂理の中で以前のような苦痛が押し寄せてくるが、私についてくる人たちがいるという喜びを栄光とみなし、主である神様に栄光を帰す。

昔、苦痛の中にあった時は「彼が私を練達した後、私は金のように出てくるだろう」というヨブ記の聖句が思い出されたりもしたが、私には希望も望みも期待する思いもそれほどなかった。私は練達というより、苦労と人生の運命を思っていただけであった。

今になって考えてみると、その頃の出来事が私の人生の試練と練達であったことをつくづく実感するだけである。未来がどんなに良くなると言われても、天が崩れていくような苦労と逆境をあまりにも味わってきたので、絶望と諦めしかなかった。けれども私は崩れても、私を練達して下さった神様は崩れるようなことはなかった。

仕事が多過ぎて、うんざりと嫌気がさしてきて、仕事場にも行きたくなかった。だから「食べることがそんなにも大切なのだろうか。もがかないと食べることができないなら、いっそのこと食べずに、もがくのをやめてしまおう」という考えが生じた。それで一時は心霊の喜びだけを追及したが、結局食べることをすっかりやめて、お祈りと賛美、聖書を読むことだけで日々を過ごした。

食べることをやめると肉体が倒れ、霊の喜びも肉体の基盤が壊れると持続できなかった。結局限界を超えていくことができなくて、絶壁にぶつかることになった。その時、肉体も磨いて霊も磨かなければならないことを、じわじわと実感するようになった。

肉体も救い、霊も救ってこそ、霊肉の完全な救いに至ることができると悟るようになった。それが完全な救い、惨めさから逃れた救いであることを強く悟った。人生を楽に生きることがどれほど難しいかを私は悟り、経験したのだ。人生を楽に生きる人々が、どれほど幸福に満ちた人々であるかを知るようになり、彼らを羨むしかなかった。

ネズミの穴にも日が射す時があるということわざだけが、私の心に糸のような希望を与えてくれた。

(続く)
死のうとすると青春が惜しく、生きようとすると苦労ばかり(6)ー鄭明析牧師

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