いつも心配していた青年 鄭明析牧師(前編)ー何故神様を愛するようになったのか
心配をしないわけにはいかない環境でした。心配、悩まざるを得ない場所だったし、孤独で、煩悩にふけっていました。仏教でいう108煩悩、まさに私のものでした。私は子供のときにお坊さんたちとたくさん会いました。そうしたらお坊さんは私に、大きな人物になる、と言っていました。当たりだったのです。小学生のときにそう言われました。
お坊さんたちは家々を回って物貰いをするんじゃなくて、人に会うためです。聞いてみると、心配のない人はいない。この人は悩み、この人は心配、あの人には…。様々な問題を持っている、それの種類が108ある、と言いました。ただでは解決できないから、してあげるわけにはいかないから、みんなが真心を込めてお米を分けてくれたら、この家の心配をなくしてください、と木魚を叩いて念仏をあげます。そういう話を聞いて、私に、あなたも大きくなってからそうしなさい、と言いました。私は教会に通っているんですけど、と言いました。「あなたは有名なお坊さんになるべきだ。」それで、そういう話をたくさん、長くしたことがあります。うちの母がお坊さんに向かって言いました。「うちは教会に通っているから、うちの息子と話をしないでください」と言いました。しかしその追い返したお坊さんと私は2時間くらい、小学校4年生のときでしたが、話し合いました。
私はこういう環境で心配悩みをたくさんしていました。あまりにも心配、悩んでいたので、神様にしがみついたのです。家でも希望がないし、近所を見ても希望がない。何の希望も持てませんでした。(続く)
いつも心配していた青年 鄭明析牧師(後編)「イエス様が来たときには全てが成し遂げられる」
2006年1月29日 鄭明析牧師の話より抜粋